政治家と呼ばれる人の絶対的な共通点

2009年07月06日 00:04

今年の夏は、選挙の夏だ。
東京では都議選が告示され、12日が投票日だ。
前静岡文化芸術大学長の川勝平太候補が勝った静岡知事選に続いて、いよいよ衆議院総選挙が行われる。たぶん、8月。

若者が選挙に行かない。
昨日の静岡知事選は投票率は高かったようだが、どの選挙もおしなべて有権者の関心が下がってきている。

そこで、選挙管理委員会は必死で、啓発事業と称して多額な予算を使い、PR活動を行うことになる。
東京都選挙管理委員会では、劇団ひとりを起用したリッチなWEBコンテンツをつくり、テレビCMまで放送している。

選挙管理委員会ばかりではない。
財団法人・明るい選挙推進協会という団体がある。
この団体では、「めいすいくん」という、いわゆる“ゆるキャラ”の見本のようなキャラクターをおこして、啓発事業を行っている。めいすいとは、「明るい選挙推進運動」の「明」と「推」を引用しているらしい。

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▲これが「めいすいくん」

そして、各都道府県の選挙管理委員会と明るい選挙推進協会は協力し合っていて、前述の劇団ひとりを起用したWEB内には、めいすいくんブログがある。

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▲これがトイレットペーパー

話は細かくなるが、同ブログによると、千代田区選挙管理委員会はめいすいくんを印刷したトイレットペーパーをつくったそうだ(上の写真)。

さらに話は細かくなるが、西東京市選挙管理委員会も同様のトイレットペーパーをつくっており、それにはQRコードまで印刷されていて、ブログの本文では「アクセスしてみて」と、カジュアルな口調で呼びかけている。

私は、若者……というか、すべからく有権者は、投票にいくのが望ましいと考える人である。

(1)選挙違反のない、きれいな選挙が行われること
(2)有権者がこぞって投票に参加すること
(3)有権者が普段から政治と選挙に関心を持ち、候補者の人物や政見、政党の政策などを見る目を養うこと

めいすいくんの生みの親、財団法人・明るい選挙推進協会は、上記(1)(2)(3)を主張しているが、私の考えと大差はない。

投票率を上げるため、選挙に行くことを義務化(選挙に行かないと罰金をとられる)することを主張する識者もいる。だが、主権在民の本筋からはずれた制度だと思う。やはり、義務ではなく、正当な国民の権利として選挙権が行使されるのが、私は望ましいと考えている。

だが、その啓発事業とやらのコミュニケーション・デザインの程度の低さには、納税者として腹立たしさを感じる。なぜ、劇団ひとり? なぜ、めいすいくん? なぜ、トイレットペーパー?

選挙の必要性を本質から説明することを避けて、ユーモラスなCMやポスター制作に逃避しているようにしか思えない。それで有権者は、本当に投票行動をすると、考えているのだろうか?

テレビCMの表現やキャラクターといった、表面のことを批判しているのではない。
有権者と立候補者の激しい心のギャップが、わかっていないような気がする。

ところで、自民党、民主党、共産党……党派にかかわらず、およそ政治家と呼ばれる人の絶対的な共通点は何だろう?

自民党の御年70歳近い道路族の衆議院議員も、30歳になったばかりの共産党の市議会議員も、男性議員も女性議員も、まったく共通している点があるのだ。所属政党や政策を飛び越えた、圧倒的な類似性。

それは……
セクシー浴衣で歌舞伎町を遊説する後藤麻衣都議会議員候補も、自民党総裁候補になることを打診した東国原英夫宮崎県知事も、津島修治の甥にあたる津島雄二衆議院議員も、同類であることを意味するのだ。

(つづく)

太宰治と津島派会長

2009年07月05日 21:38

話は太宰治から、政治の話に移ろうかと思う。

そのつなぎとして……
これは、ファンの間では有名な話だが、太宰治の本名は津島修治(つしま・しゅうじ)である。
ところが、つしま・しゅうじを津軽弁で訛って発音すると、つすますーずになってしまう。そこで、津軽弁でも絶対に訛らないペンネームとして、太宰治(だざいおさむ)を考えた。
太宰治の隠れた傑作は、自身のペンネームかもしれない。

そして、太宰治ならぬ、津島修治のにあたるのが、現在、自由民主党・津島派会長の津島雄二議員だ。

政治と言えば、今日は静岡知事選挙。
このサイト(静岡県選挙管理委員会)で、開票速報が見られるはずなのだが、エントリーした7月5日 21:38現在、サーバーが重くて、アクセスできなくなることが多い。

このあとも政治の話をつづけたい。

ああ、やはり太宰治は私の成分だったのだ

2009年07月05日 00:15

太宰治ランキングに入った!
昨日ご紹介した、blogramの結果だ。
6月にはアメリカでE3(Electronic Entertainment Expo)があり、大手ゲーム会社の発表が立て続けにあったので、ゲーム・IT分野のランクが高いのはわかるが、太宰治は意外だった。意外だったが、当たりである。

極論を言うと、もし、私が太宰治の書物に出会わなかったとしたら、今の自分はないだろう。

中学時代にこの作家を知り、「本をたまに読む少年」は「文学少年」に変化した。
文章を書くことや、言葉に対する執着心が一気に高まって、漠然とであったが、ものを書く仕事につきたいと思うようになり、出版社で働くようになった。紆余曲折あっても、昔も今も、私は文章を書く仕事をしている。

確かに太宰治は、私の成分かもしれない。
太宰治を読みはじめたころ、鮮烈なインパクトがあったのは、やはり『人間失格』だった。

あなたは、なぜ「自分に似た人」を探すのか。

あなたは、なぜ「自分に似た人」を探すのか――崩壊する「大衆」と台頭する「鏡衆」 (講談社プラスアルファ新書)あなたは、なぜ「自分に似た人」を探すのか――崩壊する「大衆」と台頭する「鏡衆」 (講談社プラスアルファ新書)





という書籍のタイトルではないが、『人間失格』の主人公の随所に、自分に似たところを見た。
たとえば、

自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどい からな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納 豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。


私は神奈川県のはずれの小さな旅館の息子だ。学校から帰宅すると、調理場では夕食をつくっている時間帯で、その日に入荷した珍しい食べ物を、おやつ替わりに、よく食べさせられた。このわた(ナマコのはらわたの塩辛)や、当時は珍しかったエシャロットの味を小学生の頃に覚えた。贅沢品だが、けっして美味ではなかった。だが、「いらない」と言えない少年だった。

そんな私にとって、上のような文章に出会うと、まるで自分のことが書かれているようで、ドキッとし、この主人公はその後、どうなっているのか夢中になって読み進めていった記憶がある。

そして、主人公が友人とこんな会話をするシーンは、今の私の言語感覚に並々ならぬ影響を与えているのではないかと思う。

自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。これは、自分の発明した遊戯で、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があって然るべきだ、たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇名詞をさしはさんでいる劇作家は、既にそれだけで落第、悲劇の場合もまた然り、といったようなわけなのでした。

「いいかい? 煙草は?」
 と自分が問います。
「トラ。(悲劇(トラジディ)の略)」
 と堀木が言下に答えます。
「薬は?」
「粉薬かい? 丸薬かい?」
「注射」
「トラ」
「そうかな? ホルモン注射もあるしねえ」
「いや、断然トラだ。針が第一、お前、立派なトラじゃないか」


日本の文法にありもしないのに、喜劇名詞と悲劇名詞に分類する。そして、それを遊戯化させてしまうところも、「自分に似た人」を感じた。こんな高級ではないが、言葉遊びは好きだった。

ちなみに、太宰治は「麻疹(はしか)のようなもの。一度はかかる病で、歳を重ねると治る」などとよく言われていた。実際にその通りで、私の太宰治病は高校1年生のときに、パタッと治まることになる。ただし、歳を重ねた自然治癒ではなく、前述の旅館とは違う、父の会社が倒産して、我が家の生活環境は急変した。すると、津軽の名家の息子は「自分に似た人」ではなくなり、急速に太宰治熱は下がっていったのである。

カテゴライズされる人になる

2009年07月04日 00:10

お気づきかもしれないが、昨日からblogramの会員登録をし、ランキング参加ボタンをつけてみた。

私のブログの成分分析や見どころを解析。
blogram側のサーバーが、カテゴリーを振り分けてランキングをつけてくれる。
この試みはおもしろいと思ったのだ。

私は怠け者であることと、自分の考えと読者の方の反応の違いを知る意味で、何かのランキングには入っているべきだと思い、またそういう助言もいただいたので、FC2の社長ランキングには開設(移設)以来、ずっと参加してきた。

他にも人気ブログランキングや、にほんブログ村など、ブログランキングはいろいろある。これらに登録してみようか、と思ったこともあったが、困るのはカテゴリーである。

旅・地域・生活・ファッション・美容・ダイエット・恋愛・グルメ・ペット・写真・音楽・芸能・映画・テレビ・演劇・お笑い・ゲーム・アニメ・漫画・イラスト・小説・車・バイク・鉄道・美術・デザイン・園芸・競馬・ 釣り・アウトドア・自転車・サッカー・野球・格闘技・ゴルフ・テニス・マリンスポーツ・スキー・スノボ・株・為替・英語・転職・キャリア・就職・人事・労務・経済・経営・ベンチャー・政治・ニュース・教育・哲学・思想科学・環境・ネット・動画紹介・ネット・IT技術・携帯・モバイル……とカテゴリーを並べられても、どれにしたらよいのか迷う。

なんたって、私のブログは一見すると、支離滅裂だが、思考やものの見方は首尾一貫していることを、目指している。かっこよく言い訳をすると、だが。

そして、完全なエッセイやコラムを毎日書くのは、私の文才と与えられた時間では無理なので、ここで書いたことが、読んでくださる皆さんの脳内で、化学反応を起こしてくれればいい。そんなことも、目指してきたつもりだ。これまた、かっこよく言い訳をすると、だが。

そういう立場からすると、社長ブログというのは「なんでもあり」の感じがして選びやすかった。
でも、昔のホリエモンのブログが、ある種の雛形をつくってしまったのだろうか。

朝からエネルギッシュに働いて、会議をすれば難題にぶつかるが、若い仲間と一緒にその困難は克服される。夕刻にはVIPと会い、夜は高級レストランで食事。それでも、帰宅してからの読書を欠かさず、日々勉強が大事だ、みたいな人生訓で終わる。そして休日はスポーツジムやゴルフに行ったことを書いたりして……。そんな「社長の日記」は、性に合わない。

というか、私の仕事のスタイルは全然社長っぽくないし、よほどのことがない限り、面談者や会議の参加者のお名前や企業名を書きたくない、また、書くべきではないと考えている。

ああ、長々となってしまったが、そういうカテゴライズできない自分にとって、第三者が分析すると、どうなるのか?

自分でカテゴリーを登録するのではなく、カテゴリーを決められるというのは、どんなものなのか?
純粋な興味があったのだ。

それと、ブログ中から重要言語を選び出し、重みづけを行い、言語というアナログな情報を数値化し、分類をしたうえで順位づけするのであろう、サーバーのアルゴリズムはどんな実力があるのか?

こんなことについても興味があった。
感性の数値化、今後のIT業界やデジタル製品の重要テーマだと思うからだ。

簡単に言うと、AmazonのリコメンドシステムやアップルのGenius、マイクロソフトのMixViewなどと関連する。

そんなわけで、投票をするというよりは、私の感性を覗き見るつもりで、みなさん、たまにblogramのボタンを押してみてください。

追伸

今の堀江貴文のブログは社会性があり、昔とは大違いだ。文体も違う。

偶然並んだ「御礼」のメール

2009年07月03日 00:27

昨日のエントリーのような失敬な御仁もいるが、そうでない方もいる。

今の私は、年齢を重ねるとともに怠惰になってしまったが、20代の頃は、血気盛んな特攻取材型の編集記者だった(つもり)。

こう言ってはなんだが、企業ニュースリリース文を集めていれば、雑誌っぽいものはできてしまう。
そして、編集者っぽい仕事もやったことになってしまう。

だけど、企業から配信された新製品ニュースでも、なぜそうなのか? どうして存在するのか? を考察したり、専門家の意見を取材したりすると、濃い記事が書ける。別の言い方をすると、さもないと他誌と差がつかないし、雑誌をつくって働いている意味がない。

たとえば、昔、任天堂が、ファミコン3Dシステムという周辺機器を発売したことがあった。このような製品である。なぜ、立体的に見えるかというと、左右の立体視差が……といった内容が発表されている。

だが、それは医学的にどういうことなのか?
もっと具体的に知りたくて、専門医の先生にインタビューをしたことがあった。

その時に取材に応じてくださったのが、この方、鴨下一郎先生である。当時は医者の先生だったが、のちに日本新党から立候補して政治家となり、今は自由民主党に所属する別の先生になられた。

脇道にそれた昔話はさておき。

最近、ガッツのある編集記者の方の取材をお受けして、自分の若い頃を思い出し「初心に帰らねば」と反省させられたことがあった。

その編集記者の方は、良い意味でしつこい。
まずはお会いして、インタビューを受けた。
次にメールで質問され、新情報が入ったら教えてほしいと依頼された。
さらに、「その新情報はどうでしたか?」と電話もかかってきた。

その電話で新情報のお話をすると、また興味を持たれた。
で、追い打ちをかけるように、「今からまた取材してもいいですか? どこにでも行きます」と勢いよく再取材のお申し込みを、受けることになった。

私はその心意気に気持ちを動かされ、またお会いすることに。
彼は私と会うなり苦笑して、こう言った。

「『今から取材に行ってきます』と社で言ったら、皆に『今から?』と言われました」。
締め切りは間近で、普通ならば取材する時間帯ではない。

にもかかわらず、新情報に貪欲で、タクシーに乗って駆けつけ、再取材ははじまったのであった。

取材も終えて、なんとか記事も入稿。
この取材のやり取りだけでも、エキサイティングだったが、感銘を受けたのはその後だった。

後日、メールが届いた。
「御礼」というタイトルだった。

短期間ではあったが、中身の濃い取材についての御礼を尽くしてくださったあとに、当方に取材協力費の請求を依頼する旨が書かれていた。

「請求書発行のお願い」ではなく、「御礼」と書かれていたことが、感銘の正体である。
この場面でなかなか「御礼」とは書けない。

私は、偉そうにもよくこんな説教を若者たちに垂れている。
働いてもらったら、払え。
払うものは、ふたつある。
お金と敬意だ。
お金がなければ敬意を払え。
お金があっても敬意を払え。


「御礼」と敬意を払ってくださり、謝金も払ってくださるという、その姿勢がまた立派で有り難い、と思った。根に持っているようだが、昨日のエントリーに登場する、無礼研修会社さんとは大違いである。

何を隠そう、無礼研修会社さんは、最後は無礼な依頼をするくせにメールの表題は「御礼」だった。
なんたる偶然!

ゆえにブログに無性に書きたくなったのだが、無礼研修会社さんのメールと、熱血編集記者さんのメールが、ほぼ同時刻に送信され、私のメールソフトの受信トレイで、2通が縦に並んだのである。表題はともに「御礼」。

あまりにも好対照で教訓に満ちていた。
現代ビジネス版のイソップ寓話のようだった。

きれいな敬語で書かれた失敬な依頼

2009年07月02日 13:06

ポッドキャスト 落語
サッカー 将棋

……ほどではないけれど、敬語やビジネスシーンでの言葉づかいに関して、検索され、このサイトを訪れる方は多い。

過去にこんなエントリーがあるからだろう。

たとえば1。
たとえば2。
たとえば3。

さて、つい最近、人間は動物だからマナーやエチケットが必要なのだというようなことを書いたら、予想外に好評でコメントとメールをいただいた。

そのなかの一通に、某・研修会社の方からのメールがあった。
新入社員から、幹部社員、経営者にいたるまで、ビジネスマナー教育を行っている会社なのだという。

人様にビジネスマナーを教える会社の方だけあって、ホント、お手本になるようなビジネスメールである。

このサイトと私への賛辞のようなものが、延々と書かれ、突然のメールの非礼を謙虚にお詫びくださり、唐突な依頼をすることの事情説明が、ていねいに書かれている。

もちろん、敬語の使い方など非の打ちどころもない。
だが、その依頼事項がとにかくひどくて目を疑った。
夏目漱石風に書けば、兎に角、非道くて目を疑った。

同エントリーでは、私が使っている資料の写真を載せたのだが、その資料を丸ごと送ってくれ! という依頼だったのだ。もちろん、無料で。浅ましく、厚かましいではないか。

お金のことでガタガタ言ってるのではない。
「おじゃまして拝見したい」とメールに書かれていたなら、「どうぞどうぞ、ご足労かけますが……」と私は返事をしただろう。

「いくら払ってくれたら、続きを見せてあげます」。
そんなセコいことは言わない。

仮にも人様にビジネスマナーを教えている御仁が、私なりに考えた無形財産を、「ただでメールで送れ」はないだろう(怒)。

そして、「動物としての」という私説を、さんざん誉め上げておきながら、自分の依頼が、動物でいえば収奪行為にあたり、それを行った際に、相手に与える不快感たるや、はなはだしい。このことを理解なさって依頼しているのだろうか(怒)。

以上は私憤だが、そういう御仁が、他社の人材の貴重な時間を割いていただいて、ビジネスマナーを教えているのかと思うと、義憤のようなものまでこみ上げてきたのであった。

SEO対策なき運任せに、学ぶものがある

2009年07月01日 11:40

検索エンジン最適化(Search Engine Optimization)。
略称・SEO。

私は、このSEO対策というものに興味がない。
知識はあるが、何かトリックのようなものを仕掛けて、検索エンジンの上位に自分のサイトを持ってこようとするのは、姑息なように思えて好きではない。

なので、このブログは何のSEO対策もしていない。
対策をしないということは、どんな検索結果が出るかは、運任せなのである。

すると、予想外のことが起きる。
そして、予期せぬことがわかる。

再三、触れてきたが、ポッドキャスト 落語 を検索して、このページに来られる方がじつに多い。私は、落語は好きだが専門家ではない。たまたま、ポッドキャストで落語を聞くとおもしろい、というエントリーを数回書いただけなのだが、結果的にSEO対策をしたかのように、落語ファンの誘導をしてしまっているようだ。せっかくお越しいただいたのに、申し訳ない。

それと……サッカー 将棋 を検索して、このページに来られる方がじつに多いこともわかった。これも落語と同様で、私はサッカーも将棋も好きだが専門家ではない。たまたま、サッカーと将棋は、戦略性や解説用語の共通点が多い、と雑感を1度だけ書いたら、そういう関心を持った方が、訪問してくださっているようだ。

この後に、また別の話へとつづくのだが、一旦、区切る。
現時点で、わかったことを、まとめる。

(1)ポッドキャストで落語を楽しみたいと思っている人は多い。これはリアルでの出来事だが、「平林がポッドキャストの落語は良いって言うから、オレも聴くようになったよ」と言われたことがある。Wiiの間や、携帯電話の動画配信、それからダウンロードのみでコンテンツを供給するPSP goなどと、落語とポータブルなデジタルデバイスとの相性はいいかもしれない。

(2)サッカーと将棋は似ていると感じている人も多い。自陣・敵陣、そのどちらでもない中間が戦場となる。ヘタな人は局所を見る。うまい人は全体を見ている。サイド攻撃あり、中央突破あり。将棋にも、攻めさせてから反転攻撃するカウンターのような戦術もある。というわけで、日本代表の選手は全員将棋を学ぶことにし、第67期名人戦で防衛が決まった羽生善治名人に「寄せ」を教わり、決定力不足を補うのがいいと思うのだ。

(3)私は「ポッドキャスト落語」の専門家でも、「サッカー将棋」の専門家でもないが、検索結果をすると一瞬、そういう人のように見えてしまう、というところがインターネットの怖さであり、おもしろさだ。

(4)そして、ポッドキャストと落語、サッカーと将棋のような組み合わせを考える私の思考は、普通の人とは違うらしい……と改めて気づくのだ。


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