Hisakazu Hirabayashi * Official Blog教育

僕の教育

  • Day:2011.10.20 00:06
  • Cat:教育
小霜和也(@kossii)さんが「きっと@HisakazuHさんは共感してくれるはず」とおしゃって「俺の教育」というブログを書かれた。

もちろん、共感しました。
そのまた感想をまた書くと、交換日記のようになってしまうので、思いつくまま「僕の教育」を書くことにします。

僕自身の子ども時代のことで、忘れられない思い出がある。
レゴが好きだった。
つくりたいものがあるのだが、ブロックの厚みが足りない。
写真のサイズのブロックが手持ちにないのだ。
lego_brick.jpg
考えた。
薄い3枚のブロックを合わせると、ちょうど写真のブロックと同じサイズになる。
この発見はうれしかった。

小学校に入って分数の授業があった。
1/3×3=1
と習う。
僕は、そんなこと幼稚園時代にレゴで覚えたことだよ、と思った。

たまに僕は、
「遊びと学びは対立するものではなく、人は遊びながら学ぶ」
などと偉そうなことを言うが、原点はレゴ体験だ。
なので、僕は長男が2歳の時にレゴを与えた。

このレゴ体験は、今の僕の教育にも影響を与えている。
小霜さんのおっしゃる「なぜ」に通じるかもしれない。
僕は長男に、なぜその勉強をするのか、たまに教えている。

たとえば九九を習う。
ニニンガシ、サザンガキュウ……
大事なことだけど、ある意味、丸暗記だ。
そこに「なぜ」はない。

僕は長男に四角形をふたつ書いて見せた。
「どっちが大きい?」と尋ねた。
小学校2年生でもわかる。

そこから面積の話をして、辺と辺をかけると広さがわかる。
「だから掛け算を覚えなくてはいけないんだ」。

図

つまり、その勉強が将来、どんな役に立つかを教えることって、子どもが学んでいることの、その先を知っているオトナがやるべきこと、という考えがある。

あとはかな。
これも僕の原体験からきている。

僕は子ども時代に「勉強しろ」「宿題やれ」と言われたことがなかった。

でも、

玄関で靴をそろえて脱がないとこっぴどく叱られた。
「いただきます」と言ったら、最初にご飯を食べなさい。おかずに箸をつけてはいけない。
そのおかずがお新香なんて、もってのほか。
ご飯をお替りするときは茶碗を両手で持ちなさい。

母方の実家が温泉旅館だったせいもあって、食べることについての躾は特に厳しかった。

こんなことに拘る性分なんです。
現実にこんなことが、間間ある。
僕の仕事場にきて、すごくインテリっぽいことを言う人がいる。

ブランドエクイティ(Brand equity)とか。
サステナビリティ(Sustainability)とか。

だけど、その人の靴の脱ぎ方がこんな感じだったりすると、、、、、、、






shoes.jpg


a_ilst210.gif

a_ilst210.gif

a_ilst210.gif


ああ、この人は僕に対するブランドエクイティを下げ、サスティナブルなおつきあいはできないかも、と思ってしまう。

教育については書きたいこと、いっぱいあるけど今日はこのへんで。

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posted by Hisakazu Hirabayashi

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アメとムチだけでは「人」は育たない説

  • Day:2010.07.14 12:02
  • Cat:教育
今日は小学生を対象にしたワークショップに参加させていただきます。
自分では「いつもできている」とは思っていませんが、心がけていることがあり、己に言い聞かせるために書きます。

子どもの教育でも、企業内の研修などの場面でも、「アメとムチ」と言う人がいますが、私は、この考え方、好きではないです。

「アメとムチ」。
比喩がとてもよくできていて、わかりやすい。
なんとなく、効果がありそうな感じもする。
そこで、つい使ってしまうのでしょうが……。

そもそも、「アメとムチ」の元の意味は、為政者が大衆をコントロールするための、確かドイツで生まれた政治用語です。国民が反乱を起こさないための運営手法のこと。この例が適切かどうかわかりませんが、「子ども手当て」はアメに属し、「消費税アップ」はムチに属します。

つまり、「アメとムチ」なる言葉には、教育とはほど遠い「だまし」や「目くらまし」みたいなものが、含有物として入っていると思うのですね。

何を言う!
「褒める」と「叱る」は大事ではないか!
……という反論が聞こえてきそうですが、はい、大事です。
あっさり認めます。
私も褒めたり叱ったりすることがあります。

でも、ですね。
できることなら、「褒める」と「叱る」よりも、もう一歩進んだところに行きたいのです。
「褒める」を一歩進めて、一緒に喜ぶ。
「叱る」を一歩進めて、一緒に悩む。(問題解決策を考える)

別次元から「褒める」と「叱る」よりも、一緒にがもっと大切なことだと思うのです。

私は教育学が専門でも、なんでもないのですが、編集者・執筆者の仕事をかれこれ25年間もやってきたんです。この仕事を通じて、一緒にの大切を学びました。

具体的に言います。
私が執筆者として素晴らしい原稿を書いたとします。
それを読んでくださった編集者が「これは素晴らしい」と褒めてくださることは、もちろん、すごくうれしいのです。でも、「私のつくっているこの雑誌が、あなたの原稿によってとても良くなったことが、うれしくて、うれしくてしかたない」と一緒に喜んでもらえることのほうが、もっとうれしい。そして、次回にその方と仕事をするときには、前回以上のパワーを発揮しようとします。

逆もあります。
残念ながら、こっちのケースのほうが多いです。

私が執筆者として素晴らしくない原稿を書いたとします。
それを読んでくださった編集者が「これはダメだ」と叱るのは、職務として当然のことなのですが、悲しい。やる気を失いそうになります。でも、「この良い部分をいかすために余分なものを削るには、どうしましょう?」と一緒に悩んでくださると、ダメなモノ書きも心から救われるのです。

以上、私が考える、アメとムチだけでは「人」は育たない説、でした。
自分がそうされるとうれしいのだから、一緒に喜び、一緒に悩むようにしよう。

LEGOは分数の先生だった

  • Day:2010.06.27 21:26
  • Cat:教育
デンマークといえば、LEGO(レゴ)。
私はレゴに感謝している。

1/3×3=1

こんなに難しいことを幼稚園時代に教わったから。
何をつくっていたかは忘れたが、どうせ他愛もないものだろう。

でも、どうしてもほしかった。
普通の厚みのブロックが1個、足りなかった。

同じカタチをした薄いブロックはあった。
試しにそれを3枚重ねると、私がほしかったブロックと同じ厚みになった。
感激した。

小学生になって、分数の掛け算をはじめて習ったとき、「あっ!」と思った。
私にとって分数は、薄いレゴブロックだった。
分数の問題は、いつもレゴを連想して解いていた記憶がある。

先週、遊びと学びについての講演をした。
趣旨としては、一見、対極にあるかに思える遊びと学びだが「人は遊びながら学ぶし、学びながら遊びもしている」というもの。

ところが、学校や塾や入試のズッポリとはまってしまうと、学びは善だがそれは労苦を伴い、労苦から逃れる遊びは悪である……という思想に染まっていく。誰も口にして、そうは言わないけど、染まっていく。

話はかなり端折るが、童心に帰って、遊びながら学ぶ気持ち、学びながら遊ぶ気持ちを持ってください、と語った。それを体感してもらうための20分間のワークショップもやった。

19歳の学生が、レゴでワールドカップサッカーの試合を再現している。
イングランドのチームと契約も結んでいるのだという。
遊びながら、学びながら、つくりながら、働いているみたいだ。
この同時進行で、渾然一体としたところが、レゴの良いところ。
だから、レゴのことを知育玩具と表現するのが好きではない。

上の動画はYouTubeで有名になったが、レゴの動画だけを世界から集めているサイトがある。ジャンルも豊富でコメディもあれば、ドキュメンタリーもあれば、ホラーもある。

「センスの学校」に行ってきました

  • Day:2010.02.22 00:07
  • Cat:教育
昨日は拙著・公式サイトでご案内しております「センスの学校」に行ってきました。
テーマは「やわらかい頭 鋭い分析 ゆたかな表現」。
主催者からいただいた事前の情報は、参加者主要メンバーは大学講師、高校教員などの教職に就かれている方。あるいは企業の経営者や管理職のお立場にあり、社員教育などをなさっている方。いずれにしても、人に何かを教えるための専門知識や実体験のある方たちが、センスの学校の生徒である、とのことでした。

失敬ながらツワモノ(!)の皆さまをまえに、講師をするというのは勇気のいることでした。
私は考えました。月並みのプレゼンテーションをしては、聞いてくださる方もつまらないだろうし、私も張り合いがない。

そこで、裸一貫、徒手空拳で挑むことにしました。
PCもプロジェクターも……すなわちパワーポイントを使わない。
珍しいことです、A4の紙2枚だけを持って、会場に馳せ参じたのでありました。
聞いてくださる方に視線を向け、聞いてくださる方の視線を浴びたいと思ったのです。

スクリーンに映写された、チャート図やグラフではなく、自分史を語りました。私は他者から誤解され悔しい思いをすることも多いので、その苦悩もさらけ出しました。恥ずかしくなるような失敗談の話もしました。大げさかもしれませんが、初対面の皆さまに全人格をぶつけにいかないと、ただの本の宣伝の場になってしまう。主催者の趣意に沿った「センスの学校」にはならないと考えたのです。

「やわらかい頭 鋭い分析 ゆたかな表現」。
テーマは大それていますが、しっかりとした縦軸と横軸によって構成された座標軸を自分の体内に持つこと。
それがあれば、表層的な現象に流されることなく、本質を見きわめることができる。
芯がしっかりとしていれば、マニュアルを断片的に暗記するよりも、学びの効率が良い。応用はいくらでもきく。
そしてさらに、まったく関係ないと思えるようなことからでも“見えざる類似性の発見”ができ、予想外の分野の学びができることもある。……うーん……あの濃密な時間を文字にすると、こんなことしか書けないのが、自分でも情けなくなりますが、そんなお話をさせていただいたのであります。

遠くから、なかには神戸から名古屋から、お越しいただいた方もいらっしゃいましたが、熱心に聞いてくださいました。ですが、こういう少人数の濃い勉強会でありがちなことではありますが、本編が終わったあとの、懇親会がまたエキサイティングでした。

ほぼ2時間あった私の講演などは、議論のきっかけにすぎず、話は時空を越えて、19世紀ヨーロッパから、20年後のアジア情勢までを視野に入れた教育論が展開されました。

そして、全人格でぶつかった私には、どんな生い立ちだったのか? 講演内で述べたことに気づいたのは、いつ、どのようなきっかけだったのか? 等々。まさに私が話したことの表層ではなく、その深層についてのお尋ねを多くいただきました。なかでもドキッとしたのは「ご先祖にお坊さんはいませんか?」という質問。我が家の家系図には、父方にも母方にもお坊さんはひとりもいないのですが、深い話を長時間したあとに、この質問をされることは今回がはじめてではありません。どうしたわけか、過去に何度かあるのですね。

ともあれ、私自身、自分のことを根掘り葉掘り訊かれる……という感覚はまったくなく、そこまで私にご興味をお持ちいただいたことについて、感謝の念がいっぱいの、大幅時間オーバーの懇親会でありました。

センスの学校事務局の皆さま、参加者の皆さま、どうもありがとうございました。
今度は生徒として参加したい、と思いながら帰路につきました。

sence.jpg

「働く」ことについて真剣に、就活は気軽に

  • Day:2010.01.26 00:01
  • Cat:教育
昨日のエントリーの通り、最終授業が終わった。
「後ろ髪を引かれる」とはよく言ったもので、授業が終わったあとも、教室から磁力でカラダが引きよせられるような気がした。午前の授業でも、午後の授業でも、プレゼントがあった。午前は、とある学生のお母様がつくってくださった、ケーキをいただいた。午後は、週末に東京ディズニーランドに行った学生から、5種類のキャラクターが入ったキャンディーのセットをいただいた。どちらも男子学生で、照れくさそうに渡すから、私も照れてしまい、感謝の言葉も短くて、素っ気なかった。だけど、心の中では大喜びだったことは言うまでもない。

私はゲームづくりをしたい学生や、CG(コンピュータ・グラフィックス)をつくりたい学生と接してきた。そのための基礎知識を約1年間、まとめて語っているのだが、それは表面上のことで、本当に伝えたいのは「働く」ことを「学ぶ」ことだ。昨日はそんな話を存分に語ることができた。

今、日本に住んでいる生徒・学生は、学ぶことは山ほどある。
小学生のころから、文字を覚え、計算を覚え、宿題を出されて、いろんなことを暗記して。そのためには、塾に通って、予備校にも行って。場合によっては家庭教師についてもらって、通信教育も受けて。試験を何度も受けて進学して。そして、単位を取得して、学ぶ期間=学生生活を終えていく。この苦労は並大抵のことではない。こんなにも長い道を通ってきたのに、最後に待っているのは、就活なるものだ。

私、ならびにこの道を通って来たオトナたちから見れば、当たり前のことかもしれないが、学ぶ期間も最後になったころの若者の立場になって考えてみる。とすれば、理不尽だなと思うのが自然なのではないだろうか。

どんなに英語がスラスラ読めても、コンピュータのプログラムがうまくても、「エントリーシートの書き方」や「面接で落ちないための応答のしかた」などの、マニュアルを読まなくてはいけない。染めた髪の黒を戻し、スーツは紺にする。ようは、みんな同じ色になれと言われているかのようだ。それが、学生生活のゴールなのかと思ってしまうと、社会に向けてバカヤローと言いたくなる気持ちはわかる。

あるいは、最初から反発したく気持ちもわかる。みんなと同じ色になるのはいやだ。就職活動をやめ「好きなことをしたい」と言って、学生たちはフリーターになる道を選ぶ。

将来 絶望 中学生
将来 絶望 高校生
将来 絶望 大学生

こんな時代だから、私は学生諸氏の持っている職業観とは違うボールを投げかけている。

私は、自分の人生は就活ごときでは決まらないと言った。
私は、就活は恐怖の関門ではなく、自分を試す良い手段と言った。
私は、就活はマニュアルを読むから、するのが嫌になると言った。
私は、そもそも「働く」ことの意味を考えてもらった。
私は、「働く」ことについて真剣に考えてほしいが、就活は気軽に考えてほしいと伝えたかった。

将来は不安だ。
世の中には希望があふれている、なんて浮ついたことは言わない。
私だって、不安だらけだ。明日の打ち合わせが不安だ。今週の締め切りが不安だ。
でも、絶望まですることはないだろう。

小説家、遠藤周作は「どうして小説を書くのか?」とインタビューされたとき、「楽苦しいから」と答えたという。
たのくるしいと読む……なんて話をしたの、覚えてくれているかなぁ。働くことに、絶対楽しいこともないし、絶対苦しいこともないと思うのだ。楽しさには苦しさが、苦しさには楽しさがつきまとう。


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