小霜和也(@kossii)さんからこんなリクエストを頂戴しました。
ありがたいことです。
元ブログはアルゴリズム男子
Twitterで、「おっしゃる通りですね」なんてレスすることではないな、と思いブログで書くことにしました。
まず、どうでもよさそうだけど、脇道の感想から述べます。
小霜さんのブログを読んでいつも、スゲーなーと思うところは、ごあいさつなんです。
ごあいさつ
先に謝っときます…。
言葉のプロの芸です。
コミュニケーションとは何かのエキスが、この2行に凝縮されています。
では、小霜さん本題に入りますね。
特に男子。僕はとにかく打合せでもセミナーでも何か発言せずにはいられない。授業参観でも「先生それちょっと違いますよ!」とか言ってしまって子供からにらまれる。彼らはとにかくしゃべらない。打合せでもひたすらメモを取るだけで自分の意志を顕わにしない。僕はあらゆるものを疑う。新入社員の頃も上司や先輩の案を見て「こういうコピーの方がよくないですか?」なんて生意気を言ってた。彼らは僕が提示した案をそのまま受け取って一切疑わない。
特に男子。
ポイントですよね。女子ではない。
これにつきましては偶然にも最近、私も似たようなと言ったら失礼ですね、似てなくもない暴論を吐いております。
戦争の時代・政治の時代・経済の時代
戦争の時代・政治の時代・経済の時代のつづき
ようはこの国の戦争のなさ。
あの大震災を擬似的な敗戦だったととらえる感性の欠如が起因しているのではないか、というのが私見でございます。
『ドラゴンクエスト』について触れられていますが、これについては多少の見解の相違がございます。
ドラクエ型コンピュータRPGの元祖は「Ultima」だろう。これは大人向けのPCゲームで、世界に散らばる「徳」を集めるという、やや宗教的で難解な内容のものだった。これを、魔王を倒すというふうに目的を単純化し、世界観を日本人向けにアレンジしたのがドラクエだと僕は認識してる。
ゲーム史を振り返れば、まったくその通りで『ドラゴンクエスト』の主人公が“ロトの血を継ぐもの”なのは、作者・リチャード・ギャリオットの別名、ロード・ブリティッシュの名から取った「Ultima」の主人公の名前です。一種のオマージュです。
その難解なRPGを日本の子どもたちに広めた堀井雄二さんを、私は格別に尊敬しております。
堀井さんはただの翻訳をしなかった。
翻案と造語をした。
いわば、明治時代の福沢諭吉のような功績のある方だと思っております。
五七調を基調とした言葉の紡ぎ方。
濁音の(Gi)からはじまるギラを攻撃魔法に、柔らかい語感の(Ho)からはじめるホイミを治癒魔法に。
そうして日本語向けにRPGをアレンジしながらも、「地球の半分をおまえにやるから裏切らないか」は、私の記憶によれば、聖書(マタイによる福音書だったか?)の引用も、さりげなくシナリオに盛り込まれています。この絶妙なるバランス感覚。
なので小霜さん同様、堀井雄二さんは言葉のあり方を学ばせていただいた方なので、つい、肩入れをしてしまうのです。
以上はゲーム業界の内側から見た私の狭い意見として読み流してください。
小霜さんのおっしゃりたいことは『ドラゴンクエスト』批判ではありません。
「ありもの」の中から選択をしないで、
自分の世界、自分の常識を疑う。自分の敵は自分で決める。仲間と横並びにならない。自分の言葉をしゃべる。自分の考えで動く。
……力を身につけるよう、提言なさっているのが本旨です。
このお考え、非常に共感できます。
アメリカのある社会学者がデジタルネイティブな若者を指して「Clickable life」と称しました。
クリックする生活と人生ですね。
パーソナルコンピュータでいえば、ワードを立ち上げて自分の物語を書くのではない。
チェックボックスをクリックするように短くは生活、長くは人生を決めていく。
これは営む会社は違っても私も日々ぶつかる壁です。
「選択肢からクリックしたようなことを言うな、するな」
「人に笑われてもいいから自分の物語を書け」
何度となく言ったセリフです。
そこに「人生は博打なんだから、ここぞという時に逆張りのチップを張れ!」
と、つけ加えてしまうのが、粗野な私の悪いクセではありますが。
引用が前後いたします。
それで世界一のクリエイター目指してます、なんて矛盾を言ったりする。
も共感するところです。
これは、クリックするチェックボックスのひとつに「自分の好きなことをやれ!」「どうせやるなら世界一を目指せ!」などの無責任な選択肢を入れる、似非人生の伝道師がいることは容易に想像できます。文中に出てきますセミナー屋さん(悪徳)のカモになってしまっているのではないでしょうか。
また話は脇道にそれますが、セミナーの語源に関するこの質問、おもしろかったです。
まとめます。
つまるところ、現代の若者に限らず、私も含む戦後生まれの少年は「なぜ、働くのか?」をきちんと教わってこなかった。好きなこともしたいけど、資本主義と折り合いをつける方法を学ばない人が多かった。
ですから、私、若者自らが「Clickable life」から抜け出す努力をしなくてはいけませんが、日本の教育が変わっていくことも諦めたくないんです。
「教育」同様に、また別のおかしな思想がこの国にはしみついて、労働=労苦の考えがある。
日本の労働に関する法は、明治憲法下で認められなかった労働三権を守ることが基本理念になっています。
ちなみに労働基準法(第1章・第1条・総則)は、「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」。
ここには、
使用者は、妊娠中の女性及び産後1年を経過しない女性(以下「妊産婦」という。)
を、重量物を取り扱う業務、有害ガスを発散する場所における業務その他妊産婦の妊娠、出産、哺育等に有害な業務に就かせてはならない。
などのいつの時代のことよ?
と、首を傾げたくなるような条文もあります。
働くことはすばらしい、新しい価値を創造しよう、社会のためになろう、お題目だけでもいいんですが、どこにも書いてありゃしない。
こんなことを思いめぐらしますと、以下のような思考を持つに至ります。
国家は、国民を幸せにすることが任務だとしたら、日本という国家はそれを怠ってきた。人間が生きるうえで必要な教育は、どこかで経済や労働と関連していなくてはいけないが、それができていない。
(旧省名で言うと)生まれた時は厚生省、幼稚園から大学までは文部省、働いたら労働省か、通産省。つまり、人の一生が俗に言う縦割り行政によって仕切られている。成人になり、豊かに働く人生全体を見すえた、幼い頃からの「教育」と「労働」の本質を知ることができていない。
Educationはteachingとdrilling
BusinessはLabor
この国で生まれ育った若者は、無意識のうちにそう刷り込まれてしまったのではないでしょうか。
と、時折、私たちを怒らす若者たちを、犠牲者と認識するようにしています。
しかしこれは観念の世界のことであって、
若い従業員が何か自発的に提案してきたことはただの一度もない。やる気がないわけではないようで、与えられた仕事は黙々とやる。僕にとっては非常に不思議な彼らの動き。
に感情はいつも……若者言葉を使います……いつもイラッときてますけどね。
こんな駄文で感想になっておりますでしょうか。

posted by Hisakazu Hirabayashi
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