Hisakazu Hirabayashi * Official Blog人間・女・男

故・飯野賢治氏を偲ぶ

昨夜は打ち合わせののち会食があり、帰宅したのは深夜だった。
家に着きメールを見たときに訃報を知った。
全身から力が抜けていくようだった。
最近は健康に留意しているはずだったのに、まさか。
とっさにニュースサイトを閲覧すると、現実を突きつけるように「ゲームクリエイター、飯野賢治氏が死去」の文字が目に飛び込んできた。
個性がいっぱい積み上がった人生も、死を報じる記事になると、ものの30秒で読めてしまう。あっけない。はかなさが再び込みあげてきた。

飯野賢治といえば「風雲児」「寵児」と評されることが多かった。
プレイステーション用のソフトだった『エネミー・ゼロ』を、イベント会場で電撃的にセガサターン向けに変更すると発表。1996年の出来事は「事件」として取り上げられた。

こんなエピーソードとともに、暴れん坊とも言われた飯野賢治氏だが、その実像は世間の評判とは異なる。
実際につきあってみると、きわめて礼儀正しい、律儀な人だった。

たとえば一緒に食事をする。
いつでも定めた時間よりも早く待ち合わせ場所に着き、同席者に気を配り下座に座る。
椅子席でも座敷でも背筋をシャンと伸ばして同席者を待つ。携帯電話を持つこともなく、手は両膝に置く。そのたたずまいは、熟達した茶道家のように美しく、凛としていた。

食事がはじまれば、会話が弾むわけだが、飯野賢治はいつも相手が話をしやすくなるよう心がけていた。トークイベントで見せる饒舌にして能弁な彼とは、まったく違う側面を見せる。話をしている相手の正面に身体を向け、ていねいにうなずき、相槌を打つ。傾聴する心が、全身から常ににじみ出ていた。

飯野賢治と私の会話では、よく「正常進化」という言葉が使われた。
物事すべてを見るときの絶対的な価値基準といっていい。
進化しているか、していないか。
進化しているならば、それはいびつな進化か、正常な進化か。
まずは「正常進化」という理想を思い描く。つづいて「正常進化」という最善の状態にするには、どうすればいいのかを考える。「正常進化」のために実行をする。これが職業人・飯野賢治のポリシーだったように思える。

2000年代に入ってからは、飯野賢治はゲーム開発よりも、企業活動全体のプランナーのような仕事が増えていった。大手企業の新規事業を立ち上げる、巨大商業施設のマーケティングプランを考える、新製品のブランディングをする、などである。これらの仕事をするときも飯野賢治の肩書きは「ゲームクリエイター」だった。

ある人が尋ねた。
「ゲーム以外の仕事をしているのに飯野さんはどうしてゲームクリエイターなんですか」。
「クライアントが抱えるどんなに難しい課題を解決するよりも、ゲームをつくるほうが難しい。逆に言うと、ゲームをつくれる人はなんでもできる。ゲームクリエイターという肩書きのまま、クライアントと接するのは相手に信頼感を与えていると思うし、ゲームをつくれる人は、どんな難題も克服できる人だということを、僕の肩書きで証明していきたい。だから、肩書きはゲームクリエイター以外、考えられない」と答えた。

飯野賢治はよく言った。
「人は他人が誉めないところを誉められたい」。
それが人間の本質ではないか、と。

訃報に接して、多くの人が飯野賢治の武勇伝を語っている。天才だった、傑物だったという声も聞こえてくる。私はこの場を借りて、他人が誉めないところを誉めさせていただきたい。

飯野賢治は礼儀正しく、おとなしく、いつも周囲への気配りを忘れない、やさしい人だった。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。




Twitter社、共同創業者 Biz Stoneとの対談より







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立川談志、談。「いま、考えればどうってことなかったんだ」

立川談志師匠が亡くなった。
私にとっては好きな落語家の域を越えて、尊敬する人だった。

1991年に独立して、講演の仕事をするようになって、人前でどうやったらうまく話せるようになるのか? 試行錯誤したけど、行きついた先は、立川談志の落語だった。

CDを買って、家でもクルマの中でも、立川談志師匠の声を耳に入れておけば、自然と話すリズムが身につくのではないか? と、考えた。英会話の学習教材のようだった。

生き方も格好が良かった。
参議院議員になったり、落語協会を脱退したり、落語家の枠をはみ出た人だったけど、印象深いのは訴訟にまでなった、高座を中断した話。

「寝ている客がいるねえ、今日は」と客を起こそうとしたが、起きない。そののち「やってられないよ」と楽屋に戻ってしまった。

話しをしていて、寝ている人がいる人がいると、内心おどおどしてテンション下がっていく(←この言葉はじめて使った)、私とは大違い。

賛否はあろうけど、プロとしての誇りを感じた。

90年代中頃、立川談志の独演会を聴きに行ったことがある。
話の枕が「マルチメディア」だった。

「近頃は、マルチメディア、マルチメディアって騒いでいるけど、ありゃなんだよ。便利になんの? 便利になったところで、もう十分便利だよ。世の中、これ以上、便利になってどうする(キリッ)」。

このセリフ、今でも頭に残っている。


ある若者が立川談志一門に入りたいと訪ねる。
すると、立川談志師匠はこう言ったそうだ。

「落語家は、利口はなれない、馬鹿でもなれない。中途半端は、なおなれない」

とね。
こんな哲学的な問答について来られない若者は入門させない。
いや、想像するに顔も見たくなかったんだろうね。

このセリフも身にしみる。
落語家の部分を別の職業名にしても当てはまる。

2000年代になって、今でもだけど、i-Podに入れて何度も何度も聴いていたのが、コレ。



出だしでいきなりオチを言うところが凄いんだけど、途中に出てくるセリフがまた胸にガツンとくるんだ。


tdanshi.jpg

我が事に当てはめると、この雑誌に書きたいとか、書きたくないとか、いま、考えればどうってことなかったんだ。この講演をしたいとか、したくないとか、いま、考えればどうってことなかったんだ。

特にやりたかった仕事ができなかったとき。
自分の連載が中止になったとき。
企画が通らなかったとき。

何か釈然としないことがあったときは、このセリフをいつも思い出すようにしている。不思議と心のざわめきが収まる。

立川談志師匠には「ずっと生きていたいとか、生きたくないとか、天国から眺めてみりゃ、どうってことなかったんだ」と言ってほしい。

合掌。




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品性と品行



映画監督・小津安二郎の言葉が印象深い。
私のFacebookの「好きな言葉」の欄には、次の一節を入れている。

人間は少しくらい品行は悪くてもよいが、
品性は良くなければいけませんよ。


品行は今、していることだ。
普段の行いだ。

品性は今ではなく過去にさかのぼる。
生まれ持った性質が含まれる。

さて、僕のつきあってきた人、今もつきあってきた人を、品行と品性に分けるとこんなイメージになる。

hinsei.jpg


我が半生を振り返ると、自分のまわりは「少しくらい品行は悪くて、品性は良い」と感じる人に囲まれてきた。
(1)のゾーンだ。選んだわけではなく、自然とそうなった。
(2)は悪く言うと堅物、まじめ人間。良く言えばご立派に生きておられる方で、近寄りがたく思えてしまう。
(3)はただの下品だ。
(4)はクセモノで、いわるる偽善者はこのゾーンに属すのだろう。

で、ある映像制作やゲーム制作をやっている社長から、PhotoshopIllustratorが使いこなせるデザイナーを探している。
「いい人いないか?」と頼まれた。

ところが、その社長、品性はあるけど品行が少し良くない。
「それでもいいよー」という方、下記メールフォームからお問い合わせください。

前回、このエントリーを書いたあと、じつは、すぐに名乗りをあげてくださった企業の方がいらした。
ありがたいことです。

今度もそうなるといいけど、余計な前置きを書いたから、うまくいかないかな?

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デジタル喪

先週の木曜、深夜だった。
悲しいことがあった。
友だちの妻が他界した。

その日に会う約束をしていただけに、なおのことショックが大きかった。

これは自分の性癖なのだけど、身近な人が逝くと、デジタルなものに触れたくなくなる。
人の命がなくなっているのに、PCにインストールしてあるソフトを最新版に更新するような。
そんな小さなことをすることが罪深く思えてしまう性分でね。

ソーシャルメディアもそう。

ソーシャルメディアは人と人をつなぐというけれど、その人ってアカウントのことなんだよね。
クリックひとつで消せる。
生身の人の命とはまったく別物。
TwitterにもFacebookにも、ほとんどログインしなかった。
僕が食べた料理をアップロードしている場合ではないでしょ、なんて思ってしまう。

30日の日曜日。
告別式を終えた。
非常に失礼なことに、講演の仕事があらかじめ入っていて、出席できなかったのも罪の意識を大きくさせてしまう。

でも、いつまでも喪に服しているわけにもいかない。
週が明けたら、通常復帰することに決めていた。
今日から普通に過ごす。

PCを使い、Twitterで何かを言い、気ままにFacebookに写真もアップロードしよう。
たまっているザ・インタビューズの質問にも答えよう。ブログも更新しよう。

デジタル喪は昨日までだ。
いつまでも悲しみを引きずるのはやめる。
この色紙もどきで区切りをつける。

友だちへ。
愛する妻の死は辛かろう。
黒色の景色も見飽るだろう。
いつものユーモアを戻してほしいから、金と赤です。


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坂口安吾「堕落論」をぜひ

あの日から二週間が過ぎました。
震災の直後、この記事でも書いたのですが、祖父母・両親から聞いた「戦後の焼け野原」を連想しました。悲惨な景色が目に飛び込むいっぽうで、日本人の気持ちがひとつになっていくことを実感し、ホント、この言葉を使うかどうか、10分間は悩んだと思うのですが、愉悦ともいえる感情を持ちました。

最初の一週間。
このエントリーを更新することと、前述「マグニチュード9.0の後、ゲームが社会にできること」を書き積むことが、自分の支柱になっていました。

次の一週間。
つまり、今週ですが、気分は変わって、毎日読んだ本があります。
本といっても、iPadのi文庫HDか、PCではAIR草紙で読んでいたわけですが。
坂口安吾の「堕落論」です。

darakuron.jpg

「堕落論」をはじめて読んだのは中学生の頃でした。
文学かぶれしていた少年は、堕落という甘美な響きにひかれて読んでみたのですが、理解できるはずもありません。ですが、年を重ねるにしたがって、そして今回の震災が起きて、やっとやっと、坂口安吾の「論」の輪郭がわかってきました。

二週間まえは地震と津波のニュースでした。
復旧・復興を願う日本人は、美しい「和」の精神でまとまっていました。

再び鶴田浩之(@mocchicc)さんが制作したhttp://prayforjapan.jp/message/から引用させていただきます。

昨日の夜中、大学から徒歩で帰宅する道すがら、とっくに閉店したパン屋のおばちゃんが無料でパン配給していた。こんな喧噪のなかでも自分にできること見つけて実践している人に感動。心温まった。東京も捨てたもんじゃないな。


都心から4時間かけて歩いて思った。歩道は溢れんばかりの人だったが、皆整然と黙々と歩いていた。コンビニはじめ各店舗も淡々と仕事していた。ネットのインフラは揺れに耐え抜き、各地では帰宅困難者受け入れ施設が開設され、鉄道も復旧して終夜運転するという。凄い国だよ。GDP何位とか関係ない。


物が散乱しているスーパーで、落ちているものを律儀に拾い、そして列に黙って並んでお金を払って買い物をする。運転再開した電車で混んでるのに妊婦に席を譲るお年寄り。この光景を見て外国人は絶句したようだ。本当だろう、この話。すごいよ日本。

ところが二週間目になると、福島第一原子力発電所の災害と放射能被害の報道が多くなります。東京都内のガソリンスタンドが売り切れで閉店し、スーパーマーケットから、米と水と牛乳とトイレットペーパーが陳列棚からなくなります。AERA、東京電力、ACジャパンには抗議が殺到したそうです。これから数ヶ月の間、品目にかかわらず、福島県産の野菜を買わない消費者が出現するのでしょう。

岡田斗司夫さんがご自身のブログで、この現象を「3次災害…社会不安」「4次災害…モンスター化する我々」と、じつに的確な分析と提言をしています。

さて、坂口安吾は

戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。


戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱(ぜいじゃく)であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。


と、人間のどうしようもなさを訴えています。
「とっくに閉店したパン屋のおばちゃん」や「スーパーで、落ちているものを律儀」に拾っていた人が、今はペットボトルを買い占めていてもおかしくない。
そんな人間の本質をえぐり出したのが、坂口安吾の「堕落論」。

しかし、この重い現実を受け入れたうえで、以下のこと述べ論を結びます。

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。


震災から二週間が過ぎた今、よろしければ、坂口安吾「堕落論」をぜひ。
青空文庫●図書カード「堕落論」

堕落論 (角川文庫)堕落論 (角川文庫)
(2007/06)
坂口 安吾

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