Hisakazu Hirabayashi * Official Blog2009年07月

幸福な家庭のシンボル、Wiiの失速に思う



東野圭吾の『容疑者Xの献身』。
小説も好きだが、映画も好きだ。

映画のラストシーンに、石神哲哉(堤真一)のナレーションが入る。
真相を聞いているだけでも泣けるのに、彼が恋した花岡靖子(松雪泰子)に「幸せであってほしい」と願うセリフの背景で、任天堂のWiiが写る。花岡靖子は、娘と楽しそうに『Wii Sports』やっている。このシーンがまた涙をそそる。

テレビゲームの存在がバッシングされることは、しばしばあった。学校を卒業して以来、ずっとゲーム業界に身を置いてきた私は、肩身が狭い思いをすることは、慣れっこになっていた。『ゲーム脳の恐怖』などという本が出版されたのは、02年のことだった。21世紀になっても、まだそんなことを言っている人がいた。

苦い思い出の積み重ねがあるからだろう。
ほんの数秒間だが、幸福な家族の光景のシンボルとしてWiiが写ったことは、ストーリーとは、また別の感動となって、体内に熱い感動がこみ上げてきた。Wiiの開発にたずさわった方々は、『容疑者Xの献身』のラストシーンをご覧になったら、きっと同じように思われるのではないだろうか。

ところで……
任天堂の今四半期決算が発表された。
昨日のエントリーに書いたように、本発表を特別に注目していた。

数字が良くないのは、予想がついた。
しかし、経常利益が63.4%減少。そこまで悪いとは思っていなかった。
今日の株価は……これも昨日書いたように、証券アナリストの方たちに分析はお任せしよう。

私が目を疑い、良くないと思ったのはWiiの販売台数だ。
4-6月で21万台しか売れていない。
クリスマスシーズンとはいえ、昨年の10-12月には200万台近く売れていたのに、である。

大阪市内で会見した岩田聡社長は「私たちは必ずしも四半期ごとにヒットソフトを順番に当てはめていく考えではなく、通期でどのようにビジネスを最大にしていくかという観点でビジネスを展開している」と強調した(ロイターより)。

確かにおっしゃる通りだろう。だが、プロゲーマーでプロ経営者である岩田社長は、この数字はソフトに左右された変動値でも、季節要因でもなく、最悪のケースもありうることを想定なさっていても、おかしくない。

私は過去に、体感ゲームのブームは、短命になる傾向があることを書いた。
現時点のWiiは、この問題を根本的に克服していない。
最悪とは、製品ライフサイクルにおけるWiiの普及期は終わり、衰退期へ突入した、という意味である。

それと、もうひとつ気になるのは利用者像である。
Wiiは、両親とふたりの子どもがいる一家を想定してつくられたハード……の匂いがする。
富士には月見草がよく似合うなら、Wiiには4人家族がよく似合う。
まさに、家族団らんのためのハードだ。

ひとりで遊ぶ『Wii Fit』や『Wii Sports』は、どんなにソフトがよくできていても、そういうことをしている自分が虚しくなるものだ。

統計は古くなって平成17年のデータになるが、国勢調査で「世帯の状況」を調べると、(私の独断かもしれないが)Wiiがよく似合う4人世帯は、全体の15%しかなかった。
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そして、最も多い「世帯人員ひとり」を、Wiiというハードは、取り逃がしているように思える。
これまた昨日のエントリーの延長のようになるが、「有力タイトルの投入」といった、いかにもゲーム業界らしい文脈ではなく、「世帯の状況」という社会情勢と照らし合わせることによって、Wiiの次なる突破口があるのではないだろうか。

Wiiの普及が、急ブレーキをかけたかのように止まったのは、なんだかWiiが似合う幸福な家庭が少なくなってしまったような現実? 錯覚? を感じた7月最後の日であった。
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アバターよりも希望を社会に

モバゲータウンをはじめ、Eコマースやネット広告代理業を営んでいる、(株)ディー・エヌ・エー(DeNA)が28日に4-6月期の決算説明会発表を行った。同発表会で連結営業利益は前年同期比26.5%減の31億3700万円であることが明らかになった。

この不況下で、十分な利益をあげているにもかかわらず、大幅減益を嫌気され、翌29日、同社の株価は29,100円安に。全上場銘柄中、値下がり率ランキングが8位になってしまった。

数ある携帯ゲームサイトの中でも、勝ち組どころか、ひとり勝ち状態になったモバゲータウンは、1400万人超の会員数を誇る。DeNAを率いる南場智子社長は、経営者としていくつものアワードを受賞し、マスコミにも頻繁に登場する時の人になった。現在もなお、内閣規制改革・民間開放推進会議委員をおつとめになっているはずだ。

ご自身でブログも書いておられ、私はたまに読ませていただいている。レトリックが多彩で、文体のキレがいい。よくある女性社長のオシャレ&グルメ日記ではなく、社会貢献活動についてなど、硬派な記事も多く、私のお気に入りの社長ブログである。この文章も、いや、お考えも私は大いに共感する。

28日の決算説明会(2009年度第1四半期 業績のご報告)でも、壇上でわかりやすく自社業績について、堂々と発表なさっている。

ところで、私が、もったいないと思うのは、なぜアバターの話なのだろう?
この点が不可解でならない。

動画を観ていただくとおわかりだと思うが、「アバター」の話が何度も出てくる。
何度も、何度も……。
何度も、何度も……だ。

南場社長のお話を要約すると、通称・3Dアバター、正式名称・モーションアバターの投入が遅れたのが、主力事業であるモバゲータウンの減益の最大の要因。その新「アバター」が登場すれば、今後は業績が回復する、という説明だ。

私は、もちろん、モバゲータウンのユーザーだ。
だが、今までにアバターを、購入したことがないし、これからアバターが動くようになっても購入しないだろう。

逆に言うと、モバゲータウンのゲームはよくできており、しかも無料である。
その副産物であるアバターに、ユーザーとしての私は購入意欲はわかない。
Wiiで言うならば、自分の分身となるキャラクターMiiを買うようなもの? と反射的に考えてしまう。
市場があることを認めるが、本来のポテンシャルをいかしきれていない。

アバターが動く話よりも、東京都民より多い会員数、国家で言うとオランダ並みの会員数を率いて、どんなソサエティをつくるのか。希望のある物語を聞かせてほしかった。

EMA(モバイルコンテンツ審査・運用監視機構)の影響力を配慮しながら、アバターを販売して収益をあげるという成長シナリオでは、あまりにも、もったいない。

これは皮肉でもなければ、誉め殺しでもない。
PCオンライン・ゲームソフト、テレビゲームソフトの地位は危ういが、日本のモバイルコンテンツは、世界一のポジションにいると思うからである。

そして、DeNAは会社の視野が目先にとどまらずに、社会に広がっていると思うからである。

決算発表といえば、今日、30日は任天堂が予定されている。
私は証券アナリストではないので、今まで、決算発表について多くを言及してこなかったが、今四半期の任天堂の業績は特別に注目している。

アバター(abater)
オンライン・ゲームやSNSでプレイヤーが顔・髪型・服装などを選択して創作したキャラクターのこと。ネットワーク上に「もうひとりの自分」を出現させて他者とコミュニケーションをとることができる。アバターの語源は、サンスクリット語の「地上に降りた神の化身」と言われている。

Twitterで……

フォローしている人、フォローされている人の表示がおかしい。
システムの問題なのか。
私の操作ミスなのか。
私がもとからわかっていないのか。

……とにかく、朝から表示がヘンで、しかも、昨日と数字が違う。
私をフォローしてくださっている方、私の意志で削除したのではございませんので、ご承知おきくださいませ。

もし、削除された方、いらっしゃいましたら、お手数をおかけしますが、再度、ボタンを押してください。
うーん、難しい。

『民主くんダッシュ!』よ、これでいいのか!

  • Day:2009.07.29 00:34
  • Cat:政治
民主党のマニフェストが発表された。
マニフェストはmanifestと書くと英語だが、manifestoと書くとイタリア語になる。
ミラノ(Milano)や、エスプレッソ (espresso)と同じで、英語っぽくなく日本語のように、最後の母音の“o”を強く発音するとイタリア人に通じやすくなるのだろう。

……という、あまり根拠のない私のイタリア語の話が、今日の本題ではない。

民主党のモバイルサイトで配信されている携帯電話用ゲーム『民主くんダッシュ!』が、かなりマズイので、ご指摘、ご忠告申し上げたかった。これでいいのか! なのである。

『民主くんダッシュ!』は、ボタンを連打し、主人公・民主くんを走らせ制限時間内に官邸を目指す、という単純なゲームだ。

企画としては、平凡きわまりない内容。
だが、無料で遊べるお手軽ゲーム、企画について、とやかく言うのはやめよう。

問題なのは、ゲーム進行のつじつまがあっていないことだ。
『民主くんダッシュ!』は、首相官邸を目指す、政権交代ケータイゲームである。

ところが、このゲームをやっていると、途中で「政権交代」というアイテムをゲットできてしまう。
しかも、時間内に2回もアイテムをゲットできるのだ。

ということは、である。

現在の自民・公明政権の政権交代をしたあとに、もう、一度政権交代をしたら政権は元に戻ってしまうことになる。つまり政権交代していない! 「政権交代ケータイゲーム」をつくろうとしているのに、この設計はないだろう。

だいたいが、途中で政権交代をしたあとに、ゴールが首相官邸というのもおかしな話だ。

途中でゲットできるアイテムは、「選挙勝利」と「首班指名」であって、ゴールが首相官邸というのらば、筋が通っている。

政治を知らないがゲームをつくれる人。
ゲームをつくれるが政治を知らない人。
この危ないコンビが、プロデューサー不在でつくってしまった様子が見え隠れする。

さらに、細かいことを言う。
上から落ちてくる爆弾の爆発エフェクト表示時に、民主くんが接触するとダメージを受けるのはいただけない。

トゲトゲの爆弾に当たらないようにすることは、このゲームの重要な要素だ。
プレイヤーは、なんとか自分に当たらないように立ち止まって避けた。
その瞬間は、快感を与える時間帯にすべきであって、爆発時にダメージを与えてどうする?
これは携帯電話の機種による仕様かもしれないが、私はかなり気になった。

今からでも遅くない、「政権交代」というアイテム名を変えること、そして爆発エフェクト表示時の当たり判定をなくすか、極力ダメージを与える時間を短くすること。投票日までに修正したほうがいいだろう。

いや、きっと驚くほどの低予算・短納期でつくったに違いない『民主くんダッシュ!』は無用の長物かもしれない。政治とゲームの両方を軽く見ているように思える。本来の目的をまったく果たしていない。

偶然書けた文章、そして覚醒水準最適化理論へ

昨日エントリーした文章には、いろいろな思い出がある。
まず、「振り向けば景色は変わっていた」と書かれた、あの文章は、はじめの原稿では入れる予定ではなかった。

だが、閃くものがあり、あとから挿入した。
予定外の文章が、読者の方の印象に残っているとは、なんとも奇縁で結ばれている気がする。

しかも、あの文章、ちょっとした事件が起きている真っ最中に書いている。

『ゲームの時事問題』を執筆中に韓国に出張に行く機会があって、ソウルの三成洞(サムソンドン)地区に滞在していた。同地区の、頭文字がIの某ホテルに宿泊していた。ところが、事件が起きた。

全館停電になってしまった。
ホテル中が大騒ぎになった。
部屋の照明はつかない、バスルームの照明もつかないのでシャワーも使えない。
廊下は真っ暗だ。
エレベーターも止まってしまった。

停電のおかげで、何もすることがない。
何もできない私は、ボーッと暗闇の中で天井を見つめていたら、スラスラと舞い降りてきたのが、あの文章だったのだ。

幸いPCを部屋に持ち込んでいた。
しかし、充電が十分ではなく、バッテリーが残っているうちに猛スピードで書いた記憶がある。

これが執筆時の思い出である。

本が刊行されたのち、しばらくしてから、当ブログで何回も紹介している以下の本に出会う。

人間はなぜ遊ぶか―遊びの総合理論 (心理学選書)人間はなぜ遊ぶか―遊びの総合理論 (心理学選書)
(2000/05)
M.J. エリス

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私が比喩として使った、「麻薬のように」「精神を激しく揺さぶった」「もっと強い刺激をせがみ」「かつてのような豊潤な牧草はそこにはない」「それはたぶん極限まで走りすぎたせいだろう」……を体系だって説明してくれていたのが、M.J.エリス(Michael J. Ellis)の遊び=覚醒水準最適化理論だった。

以前にも書いたがこういう趣旨である。

M.J.エリス(Michael J. Ellis)氏は「覚醒―追求としての遊び」を主張している。『遊びとは、覚醒 水準を最適状態に向けて高めようとする欲求によって動機づけられている行動である』。

人間は、かろうじて覚醒している状態から極度の興奮までさまざまな段階がある。この、それぞれの段階を覚醒水準(arousal level)と呼ぶ。

この覚醒水準において、個人は個人にとって居心地の良い、収まりの良い最適な覚醒水準を持っていると前提する。この最適な覚醒水準を もたらしうる、もたらしそうな刺激は、個人にとって「面白さ」を感じることができる、という。

したがってその場合は、刺激を求める場合と、刺激を避ける場 合がある。個人が最適覚醒以下の水準にあるときは、刺激を求める、個人が最適覚醒以上の水準にあるときは、刺激を避ける、ことになる。

この最適な覚醒水準 を求めようとする行為自体が、まさに遊びであるという。簡単にいうと、都会にいる者は日常の刺激が強いので週末は地方の温泉地に行き、その地方に住んでいる者は、温泉地は退屈なので、週末は都会に遊びに来る――という人間の営みを学術的に述べるとこうなる。


同書は、のちに起こる『脳トレブーム』や『Wii Fit』のような、刺激追求型ではないゲームソフトの隆盛を予見している。しかしまた、あまりに刺激が少なくなると、今度はまた強い刺激を求めるのが人間の本性であることも示している。以後、本書は私の閃きの理論的裏づけとなってくれた。

この本に出会えたのは、私が「振り向けば景色は変わっていた」を書いたことと、つながりがあるのだろう。

振り向けば景色は変わっていた

先週のことだが、質問&回答コミュニティ、教えて!OKWave教えて!goo(双方は連携しているが)に、私のことが載っていたのを、たまたま発見した。「私が書いた文章が収録されているのは、どの書籍、どの雑誌か?」という、趣意のご質問だった。

さらに、いつもは叩かれ、いじめられている2ちゃんねる掲示板だが、「珍しく平林さんの文章が誉められてますよw」とのメールを後輩からもらった。

見てみると、それは「ゲームと景色とニュータウン」という、なんかほのぼのとした良いスレッドで、後輩からの知らせの通り、ここでも同じ文章のことが触れられていた。

cover.jpg

その文章は、99年末に発行した『ゲームの時事問題』の第1章の冒頭に書かれている。
自分としては珍しい韻文風の文章で、難しい漢字を多用し、あえてフリガナをつける試みをしている。

p1.jpg

なぜ、この時期に、この文章なのかは考えずに、ともかく、そういうニーズがあるようなので、当ブログに再録させていただく。
以下、()内がふりがなだ。

はじめて我が家にゲーム機がやって来たのはいつの日だろう。
ドキドキしながら箱を開けた。

ちょっと戸惑いながらも剥(む)き出しになった銅色の線をテレビの裏にくっつけた。
画面に映った映像を手で動かすことができる。

あの時の迸(ほとばし)るような興奮は今でも忘れない。
テレビゲームとは「観客」と「主役」を手で結んでしまう人類がはじめて見た物語(ドラマ)。

見渡せばゲームはよく売れた。
ゲームは麻薬のように邪悪で、宗教のように崇高だったから。
「もう一度」と熱中してリプレイボタンを押す指は禁断の薬物をつまむ指のよう。

真剣にコントローラを握るその掌(たなごころ)は神のまえで真摯な祈りを捧げるよう。
麻薬か? 宗教か?
どちらにせよゲームは人間の精神を激しく揺さぶった。

そして夥(おびただ)しい数の中毒患者ないしは信者を生んだ。
さらに麻薬と宗教がそうであるように、それを「売る者」たちには莫大な富みを齎(もたらし)した。
ゲームは貧乏な若者を豊かにし、金持ちをもっと裕福にさせた。

しかしゲームは走らないと死ぬ、豹に追いかけられるシマウマのような運命にあった。
中毒患者と信者たちは従順だが、また当時に我侭(わがまま)でもあった。
彼らはもっと強い刺激をせがみ、新しい救いを天に求めた。
彼らは死よりつらい運命、それは退屈だと思っている。
彼らはサバンナに棲まう豹より敏感で獰猛(どうもう)だった。

ゲームはシマウマのように走った、走った、走った、猛スピードで走った。
走ることが唯一の生きる道で、またそれが本能だったから。

ゲームはタフに躍動し、よく疾駆した。
悩み、激しい運動に疲れ果てそうなこともあったが幸せなことも多かった。

仲間内で馬鹿げた喧嘩も多かったけど、空腹は満たされていた。
長い間、夢のような時代を生きてきた。

だが今、ゲームは言いようのない不安に襲われている。
猛獣に食われて夢から醒めるなら悔いはない。
生と死が隣り合わせであることを彼らは経験で知っている。

だがゲームという名のシマウマは環境の変化に驚いている。
一頭、二頭……が死んでいくから不安なのではない。
いつの間にか群れごと見慣れぬ大地に立たされている不安。
生きたままであることの不安。

これから生きていかなくていけない不安が彼らを襲っている。
かつてのような豊潤な牧草はそこにはない。

振り向けば景色は変わっていた。
それはたぶん極限まで走りすぎたせいだろう。

振り向けば景色は変わっていた。
夢のようだったゲームの時代が終わろうとしている。



この文章を書いたのは99年の秋だった。
翌年には、プレイステーション2の発売を控えていた。
ゲーム業界は、次の儲けのチャンスがやってくると、浮き足だっているようだったが、私はそこに警句を発したかったのだ。

手前ミソになるが、ここで書かれたことは、のちのソフト市場の低迷を予見していたと思う。(詳しくはこのエントリーのグラフをご参照ください)

また、ニンテンドーDSが軽視できないハードであると語ることができたのは、「振り向けば景色は変わっていた。それはたぶん極限まで走りすぎたせいだろう」という価値観が、99年のうちから宿っていたからかもしれない。

ともあれ、10年前の書いた拙稿を、記憶していただき、また、読みたいと思っていただけることは、とにかくうれしい。感謝申し上げたい。

ゲームの時事問題 (ファミ通ブックス)ゲームの時事問題 (ファミ通ブックス)
(1999/12)
平林 久和

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私はぶれていない、の愚かしさ

  • Day:2009.07.26 00:00
  • Cat:政治
ぶれる。

ぶれるというのは、もとからあった日本語ではなく、「振れる」が転じて「ぶれる」になったようだ。

ぶれるか、ぶれないか。
ぶれたか、ぶれてなかったか。


政治論議で「ぶれ」が、これほどクローズアップされるようになったのは、麻生総理大臣のいくつかの発言が発端で、それを追求する野党議員や記者たちが、またそれを増幅させたからだろう。

国会質疑で。
野党議員「総理、その考えはぶれていませんか?」
麻生総理「いいえ、私はぶれたとは思っておりません」

記者会見で。
新聞記者「総理、以前のご発言とぶれていませんか?」
麻生総理「私はぶれずに同じことを言ってきました」

総理大臣を「ぶれ」で攻撃してきた手前、野党の党首や議員も「私(たち)はぶれていない」を強調しながら、会見、メディアでの発言、演説などをする。

……というようなことを繰り返すうちに

ぶれる=悪。
ぶれない=善。


のような、非常に一元的な考えに、政治家もマスコミも、いつの間にか染まってしまったように思う。
愚かだ。

私が数回続けてエントリーしてきたプロデューサー論からしてみると、まるでお笑いである。
名プロデューサーは、前半戦と後半戦で激しく行動や発言がぶれる。
ぶれるどころか、正反対を向いてしまう。
そんな話を書いた。

しかし、どうだろう?
根底にある理想像――良いモノづくりをして、商業的に成功させる――において、名プロデューサーは、まったくぶれていないことに注目していただきたい。

ぶれない信念のようなものを持っていたならば、発言や行動が、ときにぶれるのは、よくあることである。そういうときには、「前に述べた言葉とは違うが、本来の目的に変わりはない」と、堂々と述べればいいだけのことである。

国家のプロデューサーたちは、それくらいの気概を持ってほしい。
一番恐いのは、表面の言葉がぶれるのを恐れ、信念が曲がり放題に曲がった政治が、まかり通ってしまうことだ。

日曜日。
衆議院選挙をテーマにした政治の話題が、ニュース番組を覆いつくすだろう。
今日だけではない、これから1か月以上も。

私は「私はぶれていない」と言った政治家は、物事の本質がわかっていないとみなし、心の中で減点することになるのだろう。
株主優待