24年まえのこと
- Day:2010.02.28 00:00
- Cat:私…
入社後、間もなく配属された先は、当時ブームの真っ最中だったテレビゲーム専門誌の創刊準備室でした。入社してはじめて知ったわけですが、雑誌創刊準備には1年弱ほどの期間はかかります。
編集方針を決め、雑誌のコーナーづくりをし、取材先をまわり、そんなことをするうちに創刊日が決まり、1986年3月8日となりました。この日をめがけて、ほぼ半年間、気が抜けない日々が続いたわけです。何度か徹夜も経験しました。
おかげさまで、雑誌の創刊は間に合いました。私が勤務していた会社の習慣で、東京の豊川稲荷に社長以下、編集部員一同で成功祈願。その後、慰労を兼ねて赤坂で食事会、六本木で二次会、三次会。これら行事を終えて、当時住んでいた、世田谷のワンルームマンションに帰宅したのは夜中の2時を過ぎたころでした。
すると、その時間、その場所には絶対にいるはずのない、伯母が自室のドアの前に立っていました。
暗がりで、私の顔を見つけるなりいいました。
「父が倒れたからすぐに実家に帰るように」と私にいいました。
深夜の東名高速を約1時間、伯母のクルマに乗って、神奈川県湯河原町にある実家に帰ると、車中で覚悟した通りのことが起きていました。人があわただしく出入りしています。母が泣いています。父は、すでに亡くなっていました。
私が、半年以上前から一生懸命に目標としていた雑誌の創刊日、その日が、くしくも私の父の命日となりました。
その日は1986年3月8日です。それまで「運命」なんて言葉は、使ったことさえありませんでした。ただの偶然の人との出会いを「運命的」なんていう人は、「大げさな人だな」くらいにしか、思っていませんでした。ですが、自分が初めてやった大仕事、雑誌創刊日と、父の死が同じ日だったという事実に直面すると、さすがに「運命」を感じないわけにはいきません。
私は必死に「解釈」をしようとします。とても偶然ではすまされない「運命」について。
とりあえず、つかむことができた「解釈」はこうでした。
父はきっといいたかったのでしょう。
自分の死と同じ日に生まれた雑誌を大切にしろと。
今の仕事をマジメにやれと。
父は文字通り命を賭して、人生の落伍者になってもおかしくないような学生時代を過ごしていたドラ息子に、強烈な教訓を残したのではないか。そう考えました。私が高校1年生のとき、父は自分が経営していた会社を倒産させています。事業の成功者ではありませんでした。
ですが、私は父の義理人情を重んじる仕事のスタイルが好きでした。その父が命とひきかえに残した……と受けとったメッセージを胸に刻んで、私はよく働きました。出版社に入社当初、私の平均睡眠時間は3~4時間程度だったと思います。
父は叩き上げの土建屋のオヤジで、荒くれ男でした。
そのせいなのか、私の名前は「久和」という平穏な名がつけられました。
久しく、和を重んじなさいという意図が込められていました。
しかし、仕事を覚えていくうちに、いくら尊敬する父がつけた「久和」とはいえ、「和」だけでは質の高い仕事ができないことに気づくのです。出版社の雑誌編集者というのは、いつも中間に立たされます。
たとえば、印刷所は「今日中に原稿をください」と言う。筆者さんは「2日待ってくれ」と言う。そこで間をとって、「では1日後に」ですまないのが編集者の仕事です。どちらのいい分が正しいのか、じっくりと聞いて、判断して、最後はどちらかに寄って立つ。
そうすることによって、一方とは喧嘩をしなくてはいけない。
久しい和などといっている場合ではない。
取材先とは情報をだす、ださない。印刷所とは原稿を待つ、待たない。
そんな板挟みが、毎日のように訪れます。
私は「久和」を捨てました。
やはり父の子。戦う男になろうとしました。
そして、父が好きで、一緒に映画館に行った観た映画、『ゴッドファーザー』が現代風にいえば自己啓発のビデオ教材(?)のような存在になりました。
映画の中で、ファミリーの長であるドン・コルネオーネは三男のマイケルにマフィアのビジネスをさせたくなかった。だが、運命に導かれるように跡を継ぎ、ニューヨークの巨大ファミリーと戦います。温和でひ弱そうな若者が、戦う男に変貌していく。そして、シリーズのパート2では、ラスベガスに進出するために本拠地をネバタ州に移転しファミリーを率いる。アル・パチーノが演じた、マイケル・コルレオーネが、私が目指すロールモデルとなっていくわけです。
当時の生活は異常でした。
朝、目が覚めたら『ゴッドファーザー』。
夜寝る前にも『ゴッドファーザー』。
休日も時間があれば『ゴッドファーザー』。
自宅のビデオデッキには『ゴッドファーザー』か『ゴッドファーザーPART2』しか入れておかず、久しく和を重んじていた男は、『ゴッドファーザー』の魂を吸収して、戦える男になろうとがんばった、そんな若かりし頃の思い出があります。
本日、平成22年2月28日。
俗名・平林邦夫。
亡父の25回忌がとりおこなわれます。
ただ今、生家に来ております。
写真は、他の遺品とともに棺の中に入れたとき、可笑しくなるくらいに派手な色をしたことが、今でも記憶に残る運命の創刊誌です。

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