Hisakazu Hirabayashi * Official Blog2010年02月

24年まえのこと

  • Day:2010.02.28 00:00
  • Cat:私…
私は大学卒業後、出版社に勤務しました。
入社後、間もなく配属された先は、当時ブームの真っ最中だったテレビゲーム専門誌の創刊準備室でした。入社してはじめて知ったわけですが、雑誌創刊準備には1年弱ほどの期間はかかります。

編集方針を決め、雑誌のコーナーづくりをし、取材先をまわり、そんなことをするうちに創刊日が決まり、1986年3月8日となりました。この日をめがけて、ほぼ半年間、気が抜けない日々が続いたわけです。何度か徹夜も経験しました。

おかげさまで、雑誌の創刊は間に合いました。私が勤務していた会社の習慣で、東京の豊川稲荷に社長以下、編集部員一同で成功祈願。その後、慰労を兼ねて赤坂で食事会、六本木で二次会、三次会。これら行事を終えて、当時住んでいた、世田谷のワンルームマンションに帰宅したのは夜中の2時を過ぎたころでした。

すると、その時間、その場所には絶対にいるはずのない、伯母が自室のドアの前に立っていました。
暗がりで、私の顔を見つけるなりいいました。

「父が倒れたからすぐに実家に帰るように」と私にいいました。

深夜の東名高速を約1時間、伯母のクルマに乗って、神奈川県湯河原町にある実家に帰ると、車中で覚悟した通りのことが起きていました。人があわただしく出入りしています。母が泣いています。父は、すでに亡くなっていました。

私が、半年以上前から一生懸命に目標としていた雑誌の創刊日、その日が、くしくも私の父の命日となりました。
その日は1986年3月8日です。それまで「運命」なんて言葉は、使ったことさえありませんでした。ただの偶然の人との出会いを「運命的」なんていう人は、「大げさな人だな」くらいにしか、思っていませんでした。ですが、自分が初めてやった大仕事、雑誌創刊日と、父の死が同じ日だったという事実に直面すると、さすがに「運命」を感じないわけにはいきません。

私は必死に「解釈」をしようとします。とても偶然ではすまされない「運命」について。
とりあえず、つかむことができた「解釈」はこうでした。

父はきっといいたかったのでしょう。
自分の死と同じ日に生まれた雑誌を大切にしろと。
今の仕事をマジメにやれと。
父は文字通り命を賭して、人生の落伍者になってもおかしくないような学生時代を過ごしていたドラ息子に、強烈な教訓を残したのではないか。そう考えました。私が高校1年生のとき、父は自分が経営していた会社を倒産させています。事業の成功者ではありませんでした。

ですが、私は父の義理人情を重んじる仕事のスタイルが好きでした。その父が命とひきかえに残した……と受けとったメッセージを胸に刻んで、私はよく働きました。出版社に入社当初、私の平均睡眠時間は3~4時間程度だったと思います。

父は叩き上げの土建屋のオヤジで、荒くれ男でした。
そのせいなのか、私の名前は「久和」という平穏な名がつけられました。
久しく、和を重んじなさいという意図が込められていました。

しかし、仕事を覚えていくうちに、いくら尊敬する父がつけた「久和」とはいえ、「和」だけでは質の高い仕事ができないことに気づくのです。出版社の雑誌編集者というのは、いつも中間に立たされます。

たとえば、印刷所は「今日中に原稿をください」と言う。筆者さんは「2日待ってくれ」と言う。そこで間をとって、「では1日後に」ですまないのが編集者の仕事です。どちらのいい分が正しいのか、じっくりと聞いて、判断して、最後はどちらかに寄って立つ。

そうすることによって、一方とは喧嘩をしなくてはいけない。
久しい和などといっている場合ではない。

取材先とは情報をだす、ださない。印刷所とは原稿を待つ、待たない。
そんな板挟みが、毎日のように訪れます。

私は「久和」を捨てました。
やはり父の子。戦う男になろうとしました。
そして、父が好きで、一緒に映画館に行った観た映画、『ゴッドファーザー』が現代風にいえば自己啓発のビデオ教材(?)のような存在になりました。

映画の中で、ファミリーの長であるドン・コルネオーネは三男のマイケルにマフィアのビジネスをさせたくなかった。だが、運命に導かれるように跡を継ぎ、ニューヨークの巨大ファミリーと戦います。温和でひ弱そうな若者が、戦う男に変貌していく。そして、シリーズのパート2では、ラスベガスに進出するために本拠地をネバタ州に移転しファミリーを率いる。アル・パチーノが演じた、マイケル・コルレオーネが、私が目指すロールモデルとなっていくわけです。

当時の生活は異常でした。
朝、目が覚めたら『ゴッドファーザー』。
夜寝る前にも『ゴッドファーザー』。
休日も時間があれば『ゴッドファーザー』。
自宅のビデオデッキには『ゴッドファーザー』か『ゴッドファーザーPART2』しか入れておかず、久しく和を重んじていた男は、『ゴッドファーザー』の魂を吸収して、戦える男になろうとがんばった、そんな若かりし頃の思い出があります。

本日、平成22年2月28日。
俗名・平林邦夫。
亡父の25回忌がとりおこなわれます。

ただ今、生家に来ております。
写真は、他の遺品とともに棺の中に入れたとき、可笑しくなるくらいに派手な色をしたことが、今でも記憶に残る運命の創刊誌です。

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ゲーム業界版・不都合な真実(完結編)

過去3回のエントリーをまとめます。
ゲーム業界で働く人たちが抱く不安感。
ときに、私はその光景がガレー船と重なるときがあります。

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ゲーム開発にたずさわる人員は増え、開発期間は長期化しました。
そこで働く人々は、今、自分がどの場所にいて、目標地点はどこで、何のために仕事をするのか、見失いがちになる。その心境を察すると、ガレー船の乗組員を思い起こしてしまいます。

人員は増え、開発期間は長期化?
こんなことは、最近になって起きたことではありません。
ファミコンがスーパーファミコンに。スーパーファミコンがプレイステーションに。
ハード性能が上がり、ソフト容量が増えるたびに、繰り返していわれてきた業界の問題点です。

しかし「成長は七難を隠す」です。
業界全体、企業の売上、個人の給与が成長しているときは、どんな問題も隠されてしまう。
夕べも遅くまで続いたTwitter上での議論で「昔は残業代も青天井で“自分の血を売ってる”と割り切って働いてました」とのご意見がありました。

血を売る……を穏やかに意訳するならば、たとえ徹夜が続いても、ゲームが1本完成すれば、開発者には有形・無形の報償があった、ということでしょう。

90年代のことでした。私はソフトが完成した現場を取材。その時間が午前だったせいか、パジャマを着たままのディレクターをインタビューしたことがあります。徹夜明けの姿なのですが、悲惨さなどまったくありません。それどころか、気分が高揚しているディレクター氏から満面の笑顔で、いきなり握手された記憶があります。

ところが、一昨日のエントリーで示したグラフのように、成長が止まると……止まるどころか市場が縮小すると、問題は一気にあらわになります。

学園祭前夜のような気分でやっていたワクワクするような徹夜は、単なる過重労働になります。
喧嘩しながらであっても、完成すれば仲直りしていた人間関係も、市場の低迷期では修復しにくくなります。ソフトが売れなければ罪のなすりつけあいが起こりやすくなり、ストレスは増えるばかりです。

そういう時代の局面になっても、ハード性能が上がる。ソフト容量が増える。
ゲーム開発にたずさわる人員は増える。
開発期間は長期化する。

となれば、開発効率を良くするために必然的に行われるのは分業化で、ゲームクリエイターや、グラフィック・デザイナーになりたかった者たちは、ゲーム・パーツ・クリエイターや、グラフィック・パーツ・デザイナーにならざるをえないのです。

上司の指示を拡大解釈して信じた道を突き進む&やらかして教訓を得るという、若造を最も成長させる働き方の幅が、分業化が進んだせいで昔よりも狭くなったような。彼らは昔の自分より明らかに真面目に頑張ってますが、仕事の質ではなく量に忙殺され消耗してる印象です。

とは、これまた夕べのTwitterで聞かれたご意見。
肥大化したプロジェクトを、分業によってくぐり抜けている実態を、端的に示していただいたように思えました。

ですから、私が現場に入ったときには、プロジェクトの構成員をガレー船の乗組員にしないようにしてきました。
船はどこにいて、これからどこに向かうのか。本当はグラフィック・デザイナーになりたかったのに、ひたすら木と草と森を描いてもらっているグラフィック・パーツ・デザイナーには、私は加害者であなたは被害者であるという意識を持って、マストの上から見える光景を説明してきたつもりです。

プロジェクトマネジメントの専門用語でいうならば、アカウンタビリティ。個人や組織が影響を与えたと思しき意思決定について、合理的に説明を行う責任を果たそうとしました。これをしないと、ゲームソフト開発は、周囲が見えづらい、不安な重労働だと思ったからです。にもかかわらず、私の力不足で去って行く者はいるし、ストレスをため込んでいく者がいる。そんな苦い経験を積んできた、この10年間でした。

さて、やっと話はこのシリーズ最初に戻るわけですが、私がつき合ってきたゲーム業界の闇の部分に対して、なにか光を照らすことはできないか。考えました。

と同時に見渡せば、同じような問題は、昨日触れたIT業界をはじめ、どの業界でも起きている。いや、業界を越えた社会問題でもある。今日もこんな記事が出ています。そんな経緯から「ゲームの本ではありませんが、ゲーム業界の人に読んでほしい本です」を書いたのであります。

「ゲーム業界版・不都合な真実」。
この連続シリーズだけをお読みになると、いつも私はタフで冷静だったように思われるかもしれませんね。かっこいいことばかり言っている。

そんなことは……ないと思います。知っている人は知っているように、私は2007年に一期だけジャスダック上場企業の社長をつとめましたが、企業再建に失敗しました。その会社は結局清算されたという、涙が止まらない経験をしました。同書でも告白していますが、当時、私は食欲がなくなってしまい、60kgあった体重が51kgまで下がっています。辛かったです。

この苦い経験を通じ、伝えたいことが積もりに積もりました。
この苦い経験を通じ、日々の仕事で徒労感に包まれている人に、エールを送る本を書きたいと思うようになりました。私よりも若い人に向けて、偉い先生ではなく、先を生きた人として、どういうところで人は躓(つまずき)やすいかを書こうと思いました。

では、成長が止まり、閉塞感に満ちたゲーム業界で働く人は、どうすればいいのか?
それを書き出すと終わらなくなってしまうので、ひと言だけ。
頭のいい人よりも、頭の柔らかい人が求められる時代がやってくるでしょう。

議論はまだつづきそうですが「ゲーム業界版・不都合な真実」はこれをもって完結といたします。

ゲーム業界版・不都合な真実(3)

一昨日、昨日と書いた「ゲーム業界版・不都合な真実」は、パンドラの箱を空けてしまったようです。ブログを更新したあとのTwitterでの意見交換は延々と続き、知人からは深夜に直接電話がかかってきました。メールでもこんなことを書いて大丈夫か? と心配してくださる方もいらっしゃいました。

と、ちょっとした騒ぎになるほどのエントリーだったわけですが、救われることに、私がここに記したことは暴露話と受けとる方は皆無に等しく、一昨日に書きましたように私が新著を書くようになった根本的な問題意識として、ご理解をしていただきました。そのうえでの白熱した議論が、早朝まで続いたのであります。

また、これはつけ加えるべきことかと思うのですが、「ゲーム業界版・不都合な真実」。
そんなことは聞いたこともない。
まったく知らなかった。
……というご意見はゼロでした。

それどころかご自身の病歴や、職場における事例を情報提供というかたちで、わざわざお教えくださる方が20名以上いらっしゃいました。

さて、そんなTwitter上での議論で、多くの方が関心を持たれていたことは「他の業界と比べてゲーム業界は心の病が多いのか?」ということでした。

結論を申し上げると、わかりません。
そこがまさに不都合な真実で、実態調査をするという行為からして、避けられてきた気がしてならないのです。

たとえば、私はこんな経験をしたことがあります。
あるビジネス雑誌から、ゲーム業界特集を組みたい、との取材のお申し込みを受けます。
「日本のゲーム開発力がアメリカをはじめ、諸外国に比べて劣ってきている要因は何か?」というインタビュー。

そのなかで、根本的な要因として、働く人の意欲が低下している。他国の開発者が将来に夢を見ているのに対して、日本では夢の時代は終わっている感がある。むしろ、ゲーム業界の将来不安にさいなまれている。その諸例をあげても、心の病のことは削除されます。掲載されません。

同じことは研究会、学会、勉強会での議事録などでも経験したことであります。こう申し上げることは、逆に私の偏見かもしれませんが、このような会合では昨日掲載したグラフは見なかったことにして、また上のインタビューとは異なって「世界で評価される日本のゲーム産業」を実態調査するのが目的であると思われ、当然ながら開発者……もっと広く言えばゲーム産業従事者の心の病のことなど、やはり掲載されません。

その点、といってはなんですが、IT業界では封印されることはなく、我が業界の問題意識として調査されたことがあります。

たとえば日経BP社が運営するITproは、
アンケートで分かった「心の病」の悲惨な実態
第1回 うつ病の増加は,IT業界から始まった
ITmediaも、
ストレスにさらされる業界、「IT・通信」がトップに

といった特集を組んでいます。
いずれも「今」を示したものではありませんが、無視できないデータといえるでしょう。

他のデータとしては、厚生労働省によって3年ごと10月に全国の医療施設に対して行われている「患者調査」の結果が発表されています。

これでは情報が多すぎてわかりにくい場合は、社会事情データ図録という有用な統計をまとめたサイトがあり、病名を検索するとこのようなデータを見ることができます。

いったん、まとめます。
昨日の深夜、Twitter上で大いに議論された業界ごとの比較やデータについて。

まず、「ゲーム業界」というくくりのデータは、私が知る限りありません。
これは業界全体の問題として、研究すべきテーマかと思います。ですが、私見ではメディアも学会も「不都合な真実」として封印されてきた感があります。ただし、ゲーム業界に隣接するといってもよいIT業界の場合は、各種のデータが残されています。

昨日のグラフのつづきで、2000年代後半はどんなことが起きたのかを語り、それはキーワードだけ申し上げると、極度な作業の分業化、開発期間の長期化が起因するのではないか? という仮説を述べ、この「ゲーム業界版・不都合な真実」のシリーズは終えるつもりでした。でありましたが、Twitter上での議論で、お約束をしたという事情もあり、本エントリーでは、私が知るデータについてお伝えすることにいたしました。

(つづく)

ゲーム業界版・不都合な真実(2)

昨日のエントリーのつづきです。
「ゲーム業界版・不都合な真実」を書くためには、私の仕事の説明をしなくてはなりません。
私は物書きの仕事をするほか、いわゆる経営コンサルタントの仕事をしています。

経営コンサルタントというと、どんなイメージをお持ちですか?
「いかがわしい!」。
はい、その通りです。よく「経営コンサルタントと名乗る男」が詐欺事件などを起こして捕まったりしています。
「楽で儲かりそう!」。
これも、当たりです。
経営者にアドバイスをするだけでフィーがもらえるのですから、いい商売です。

ともすれば、いかがわしくて、楽をして儲けていそうな仕事。
それが、経営コンサルタントであることを、自覚しているくせに、それを生業(なりわい)にしている私は、なるべく現場、現場に近いところで働くように心がけてきました。

いや、大手コンサルティング会社、マッキンゼーやボストン・コンサルティング・グループを率いているわけでもない私は、現場で働くのが、ちょうどいい役所(やくどころ)だったのかもしれません。

ともあれ……私は経営コンサルタントを名乗っていますが、この職業名にはかなりの抵抗感があり、その代償行為として、世間がイメージしているよりも、はるかに現場密着型の仕事をしてきた(つもり)、とご理解ください。

具体的にどんなことをするのか。
昨日のつづきですから、90年代のことは割愛します。
90年代は、イケイケドンドンの時代したから、現場のスタッフたちと、攻めていけばよかった。
そして、たいていのことは成功した。以上、です。

しかし、2000年を過ぎると日本国内のゲームソフト市場規模は急激に縮小します。
私の夢のようだった「ゲームの時代」は終わるは幸か不幸か、的中してしまったのです。
99年、4851億円あったソフト市場は、03年には3091億円まで落ち込みました。(下図参照)

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このような2000年代の前半、ゲームソフト製作の現場は壊滅的なダメージをこうむるわけですが、私が現場でやったことは立て直し、でした。

会社そのもの存続が危うくなっている場合は、会社再建を丸ごと引きうけ、現場に机を置いて、毎日出社したこともありました。そこまで規模は大きくなくても、10数名規模のプロジェクトを立て直す、あるいは不採算と判断すれば中止の決定をくだす、というようなことを、何度となく積み重ねてきました。

こうして現場に身を置いてみると……昨日の話のつづきです。
私の身の回りに、続々と体調不良を訴える人が出てくるようになるのです。

頭痛がする、朝起きられない、動悸がする、手が震える、肌が荒れる、ひどい肩こりがする。
訴える内容は「体調」のことですが、当時必死になって臨床心理学を学んだ私は、それが過度のストレスにかかわっている=心因性であることが推定できます。

しかし、医師ではない私は、治療行為などはできない。
むしろ、そんなことを行ってはいけない。
心の病は、専門医にまかせるのが鉄則で、私は体調不良を訴える社員たちを、精神科、または心療内科に行って診断することをすすめることを、ほぼ月に1度くらいのペースで行っていました。

私は「心因性であることが推定できます」と書きましたが、その推定でさえ他者に押しつけることは危険な行為です。素人の私が診断してしまえば、法により罰せられます。したがって、私の推定は間違っていないか。症状を克明にメモし、専門医を訪問し確かめに行く。そのうえで、推定がほぼ確からしいと判断したときのみ、本人に伝達することを自分自身のシバリにしてきました。

こうして、調べて、確認して、説得して、治療を受けてくれるのならば早期治療がほどこされたことになります。
難儀だったのは「私は心を病んでいるわけではない」と主張する人がいることです。
こういうケースは、無理に説得するのは得策ではなく、家族の同意や協力が必要です。たとえ本人が拒んでいたとしても、症例によっては、家族とともに治療してもらうことが必要とされています。

ご家族に事情をご説明するために、関東近県の各地、北海道や和歌山県にも足を運びました。どこの馬の骨だかわからない男=私から、いきなり電話があり「おたくのご子息のことでお話がございます」と告げられ、東京から初対面の人物がやってくるわけです。この対面がはじまるまえ、親御さんたちが一様に浮かべる不安に満ちた顔は、忘れようにも忘れられません。

開発現場に飛び込む経営コンサルタントは、このような仕事をしていたわけですが、仕事を離れてプライベートの時間でも、相談事をされます。

たとえば、世間でいうところの有名ゲームクリエイターと会食をしたとします。
すると、私のブログの読者の方ならば、全員が知っているようなヒット作をつくった人物が、自分が心の病にかかったことを語るのです。なかには「平林さん、ボクは朝起きるたびに死ぬことを考えてるんです」と告白する人もいました。嗚呼、そんな人たちの人数をかぞえたくもありませんが、けっしてまれなケースではない……ということを理解していただく意味で申し上げましょう。その数は、両手では数え切れないほどです。

いや、私がここで妙に話をぼやかさなくても、ゲーム業界にいる人ならば噂は伝わっているでしょう。
なかには、自身のブログやmixiの日記などで、病気のことを書いている人もいます。

ですから、私はけっしてこの場で衝撃的な事実を暴露したわけでもありません。
まさに、今日書いたことは「ゲーム業界版・不都合な真実」であり、論じることさえ封印されていただけ……だと思っています。上で述べたことは、ゲーム業界に身を置く人にとって、珍しくない出来事かもしれないのです。

そんな経験をしてきたので、私は何かをしたかったのであります。

(つづく)

ゲーム業界版・不都合な真実(1)

今まで経緯を整理します。

2000年1月8日、私は、夢のようだった「ゲームの時代」は終わると副題に書いた本を刊行しました。『ゲームの時事問題』という本です。それから10年の歳月がすぎた2010年の1月8日私は何かをしたかった、との思いをこのブログで語っています。
その翌日、1月9日に「突然ですが、新刊のご案内です」と題して新著を発刊させていただくことを発表させていただきました。

すると、当時はまったく内容について触れていなかったため、当然ながら「どんな本ですか?」とお問い合せをいただくことになりました。このご質問には、「ゲームの本ではありませんが、ゲーム業界の人に読んでほしい本です」と、失礼ながらぼやかした内容の文章を書いております。

しばし、日数の間隔があいて、2月5日。「新刊のお知らせ 公式サイトオープンしました」をエントリー。その後は原則として、公式サイトの更新があるたびに当ブログではお知らせをしてきました。

そんな流れのなかでした。2月18日のエントリーの末尾で、

私がなんでこの本を書くことになったのか、ただの告知ではないディープな部分に触れていません。じつは現在、ブログで公開用の原稿を書きためておりまして、そのシリーズ名は「ゲーム業界版・不都合な真実」(仮称)なんです。

と記述いたしました。

この箇所、「ゲーム業界版・不都合な真実」には謎めいた響きがあったのか、「続きを期待します」というメッセージをメールやTwitterのDM(ダイレクト・メッセージ)を通じて、多数の方からいただいております。

さて、約束通り、語ることにしましょう。
「ゲーム業界版・不都合な真実」について。

ここで申し上げる不都合な真実は、あくまでも比喩として使わせてもらっています。
映画『不都合な真実(An Inconvenient Truth)』での描写に誇張があったか、なかったか。
あるいは、政治的な意図があったか、なかったか……とは違う次元の話としてご理解ください。

ゲーム業界の人たちが、真実なのだけど、おおっぴらに語ることを避けてきた。
見て見ぬふりをしてきた。
まさに不都合なことがあります。
それは、ゲーム業界で働く人たちの心の病という深刻な問題です。

(つづく)

「センスの学校」に行ってきました

  • Day:2010.02.22 00:07
  • Cat:教育
昨日は拙著・公式サイトでご案内しております「センスの学校」に行ってきました。
テーマは「やわらかい頭 鋭い分析 ゆたかな表現」。
主催者からいただいた事前の情報は、参加者主要メンバーは大学講師、高校教員などの教職に就かれている方。あるいは企業の経営者や管理職のお立場にあり、社員教育などをなさっている方。いずれにしても、人に何かを教えるための専門知識や実体験のある方たちが、センスの学校の生徒である、とのことでした。

失敬ながらツワモノ(!)の皆さまをまえに、講師をするというのは勇気のいることでした。
私は考えました。月並みのプレゼンテーションをしては、聞いてくださる方もつまらないだろうし、私も張り合いがない。

そこで、裸一貫、徒手空拳で挑むことにしました。
PCもプロジェクターも……すなわちパワーポイントを使わない。
珍しいことです、A4の紙2枚だけを持って、会場に馳せ参じたのでありました。
聞いてくださる方に視線を向け、聞いてくださる方の視線を浴びたいと思ったのです。

スクリーンに映写された、チャート図やグラフではなく、自分史を語りました。私は他者から誤解され悔しい思いをすることも多いので、その苦悩もさらけ出しました。恥ずかしくなるような失敗談の話もしました。大げさかもしれませんが、初対面の皆さまに全人格をぶつけにいかないと、ただの本の宣伝の場になってしまう。主催者の趣意に沿った「センスの学校」にはならないと考えたのです。

「やわらかい頭 鋭い分析 ゆたかな表現」。
テーマは大それていますが、しっかりとした縦軸と横軸によって構成された座標軸を自分の体内に持つこと。
それがあれば、表層的な現象に流されることなく、本質を見きわめることができる。
芯がしっかりとしていれば、マニュアルを断片的に暗記するよりも、学びの効率が良い。応用はいくらでもきく。
そしてさらに、まったく関係ないと思えるようなことからでも“見えざる類似性の発見”ができ、予想外の分野の学びができることもある。……うーん……あの濃密な時間を文字にすると、こんなことしか書けないのが、自分でも情けなくなりますが、そんなお話をさせていただいたのであります。

遠くから、なかには神戸から名古屋から、お越しいただいた方もいらっしゃいましたが、熱心に聞いてくださいました。ですが、こういう少人数の濃い勉強会でありがちなことではありますが、本編が終わったあとの、懇親会がまたエキサイティングでした。

ほぼ2時間あった私の講演などは、議論のきっかけにすぎず、話は時空を越えて、19世紀ヨーロッパから、20年後のアジア情勢までを視野に入れた教育論が展開されました。

そして、全人格でぶつかった私には、どんな生い立ちだったのか? 講演内で述べたことに気づいたのは、いつ、どのようなきっかけだったのか? 等々。まさに私が話したことの表層ではなく、その深層についてのお尋ねを多くいただきました。なかでもドキッとしたのは「ご先祖にお坊さんはいませんか?」という質問。我が家の家系図には、父方にも母方にもお坊さんはひとりもいないのですが、深い話を長時間したあとに、この質問をされることは今回がはじめてではありません。どうしたわけか、過去に何度かあるのですね。

ともあれ、私自身、自分のことを根掘り葉掘り訊かれる……という感覚はまったくなく、そこまで私にご興味をお持ちいただいたことについて、感謝の念がいっぱいの、大幅時間オーバーの懇親会でありました。

センスの学校事務局の皆さま、参加者の皆さま、どうもありがとうございました。
今度は生徒として参加したい、と思いながら帰路につきました。

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涙の数だけ強くなりたい

私は今年の正月、長野県の軽井沢町にいました。
本の校正作業をするためです。
朝、家族をスキー場に送り届け、その後は投宿先に戻って、昼はひとりで仕事。
こんなに素晴らしい環境にいると、仕事ははかどると思いきや、やはり、気が散るんです。そして……気になるんです、箱根駅伝のことが。

1月2日のことでした。
あの「山の神」といわれた東洋大学・柏原竜二選手が走る日です。
しかも、彼が走る小田原-箱根間の5区は私の出身地のエリアです。
小田原中継所は、私の母校である神奈川県立小田原高校のすぐ近く。さらに5区の走路は子どもの頃から何度もクルマで走ってきた道です。

で、誘惑に負けて仕事を中断。
テレビのスイッチを入れ、テレビ中継を観ると同時に「ニッポンのお茶の間 ピーチク」にログインすることにしました。

箱根駅伝好きの方たちが、Twitterを通じていろいろな感想をつぶやいていて、正月のせいもあるのでしょうか、どこかの大学を熱烈に応援するのではなく、「走る選手たち、みんながんばれ!」……のような和やかな雰囲気が感じられました。私は、

■5区です。私の地元ということもありますが、好きな区間です。一度でもあの坂をクルマで走れば、よくこの道を人間が走るよなーと思う坂道です。
■まだ風祭(かざまつり)地区です。箱根に入っていません。小田原市です。
■そうです。鈴廣と籠清があります。かまぼこの有名店の名前です。工場見学もできます。
■箱根の坂は、箱根登山鉄道に乗っても、その斜度がわかります。スイッチバックする箇所は坂がきつい。出山信号場、大平台駅、上大平台信号場でスイッチバックします。
■柏原伝説がまた!
■小涌園前。人が多くてわからないけど、この坂もきついです。


などと、他愛ない内容をつぶやいていたのです。
その時に、Twitter上で話かけられ、私も話しかけたのがatauky(Takuya Y./ベン)さんでした。以来、フォローする・されるの関係となりました。そして、ありがたいことに私のブログもご覧いただき、拙著もご購入いただいたのです。さらに、です。今朝、私はオフィスに来て驚きました。

ご自身のブログで、ご感想を書いていただいてました。
その感想が、なんと言いましょうか、いわゆる書評、ブックレビューではない。本書を通じて、ご自身が過去にTwitterでつぶやいていたことを、まとめる形式となっていたのです。

これは良い本だ!
とほめられたら、もちろんうれしいでしょうが、こういう経緯で知り合った方が、外に向けて発散するのではなく、私が書いたことと、ご自身がつぶやいたことの重なる部分を、内省的になり、心の中を発掘するようにお読みいただいた。……と、解釈してよろしいですよね、ataukyさん……そうした知的な行為をしてくださったことが、筆者としてうれしてたまりません。うーん、出版社の方とも相談しないで書いてしまうと、あとがきにこんな一文を書いています。

本書を通じて「共感者はここにいる!」と名乗りを挙げたかったのです。

私はataukyさんの共感者になれたような気がして、また、ataukyさんは私の共感者であってくれたような気がして。感無量の朝を迎えることができました。ありがとうございました。

ataukyさんのブログです。
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涙の数だけ強くなりたい

ぜひ、ご覧ください。
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