高木真介とイサベル・カントスの演奏会
- Day:2010.07.29 11:58
- Cat:音楽と動画
神奈川県の西端、湯河原という地だ。
小さいながらも町は栄えていた。
それでいて自然も残されていた。
良い環境にあった。
たとえば、夏。
朝はカブトムシを捕まえに行き、昼は海へ行った。
国道135号線の向こう側、黒砂が広がる吉浜海岸で泳いだ。
まるで、『ぼくのなつやすみ』の世界だ。
ただ、ゲーム内の進行時間と違って、夏ごとにオトナに近づいていく僕らは、複雑な精神を持つ少年になっていったのだと思う。僕らは、互いに言葉で確認したことはなかったが「平凡」を嫌っていた。受験勉強は熱心ではなかったが、自分は他者と違うことを証明することに対して夢中になっていた。僕は文学に傾倒し、彼は音楽を愛した。
僕らは同じ高校に入学した。
毎日、同じ電車に乗って通った。
いちおう地域の進学校ということになっているが、校風は自由すぎるくらいに自由だった。
本当にそんなことが許されたのが不思議だが、朝は寄り道をしてから、好きな時間に登校していた。午後に受けたくない授業があると喫茶店に行き、インベーダーゲームを遊んでいた。
そう、これはいつの時代の話かというと『スペースインベーダー』が登場し、サザンオールスターズがデビューした頃の話をしている。ともに、1978年の出来事だ。
自己弁護をすると、僕らはけっして不良少年ではなかった。
いつでも、他者と違うことを証明せずにはいられなかった、規格外の少年だったのだ。
高校も3年生になると進路指導というセレモニーがある。
僕は、私立大学に進学すると担任の先生に伝えたが、彼は単身、スペインに留学し、ギタリストになると宣言した。慌てたのは先生で、猛反対した。
30年まえのスペインは、今のスペインではなかった。
果てしなく遠い、闘牛とフラメンコしか思いつかない、未知の国だった。
今でいえばどこだろう……マダガスカル共和国の北部の孤島、マヨット島くらいの心理的な距離があったのではないだろうか? 当時のスペイン。
だが、彼は決意していた。先生の反対を押し切って、すでに高校時代からギタリストであろうとした。
未来にかける想いは真剣だった。
彼の家の近くにはボウリング場があった。
僕らの絶好の遊び場だった。
ところがある日から、彼はボウリングをやらなくなった。
理由は「爪や指を痛める可能性があるから」だった。
人生について、まだほんの少ししかわかっていないながらも、僕は思った。
彼は本当にスペインに行って、ギタリストとして成功してしまうのかもしれないと。
この予感は、うれしいことに的中した。
スペインマドリード王立音楽院に留学し、学生時代から数々のコンクールで受賞。
その後も競争は厳しいが、同時に活躍の場も豊富な、ヨーロッパの音楽界で、著名なギタリストとなって演奏をしつづけている。
その彼が、この夏、日本に帰ってくる。
彼の名前は高木真介(Masayuki Takagi)という。
ソプラノ歌手のイサベル・カントス(Isabel Cantos)さんとデュオの演奏会を行うのだ。
「スペインのうた、世界のうた」。
今年3月末、シカゴで公演され、高評を得た演目が東京でも行われる。
彼からのメールによれば、
第一部が「世界のうた」。
英語、イタリア語、ロシア語、ポルトガル語など、色々な言語で歌います。
第二部は「スペインのうた」。
セファルディ(15世紀にスペインから追放されたユダヤ人)の歌、スペイン黄金世紀16世紀の音楽、そして、マヌエル・デ・ファリャやガルシア・ロルカのアンダルシアの歌曲。合間にギター・ソロも数曲挿んであります。バラエティーに富んだプログラムで、学術的(マニアックな)なものでなく、普段あまりクラシック音楽になじみの薄い人でも、気楽に楽しめる内容になっています。
下の動画は、彼の長男がつくったパパのためのプロモーションビデオだ。
スペイン生まれのスペイン育ちなのに、漢字を巧みに使ってチケット販売の問い合わせ先などが映されている。
よちよち歩きだった幼子が、僕らのように夏ごとにオトナになり、YouTubeに動画をアップするようになったんだ。
いろいろな思いがこみ上げてくる。
追伸
「オフィス高木」の叔母様、お元気でいらっしゃいますか。平林です。おかげ様で、私の母や伯母たちも元気で、くれぐれもよろしく、と申しております。ともに「平凡」な道を歩まなかった友人として、この演奏会のこと、お知らせさせていただきました。8月に湯河原で、9月に演奏会会場でお目にかかれるのを楽しみにしております。