あの日から二週間が過ぎました。
震災の直後、この記事でも書いたのですが、祖父母・両親から聞いた「戦後の焼け野原」を連想しました。悲惨な景色が目に飛び込むいっぽうで、日本人の気持ちがひとつになっていくことを実感し、ホント、この言葉を使うかどうか、10分間は悩んだと思うのですが、愉悦ともいえる感情を持ちました。
最初の一週間。
このエントリーを更新することと、前述「マグニチュード9.0の後、ゲームが社会にできること」を書き積むことが、自分の支柱になっていました。
次の一週間。
つまり、今週ですが、気分は変わって、毎日読んだ本があります。
本といっても、iPadのi文庫HDか、PCではAIR草紙で読んでいたわけですが。
坂口安吾の「堕落論」です。

「堕落論」をはじめて読んだのは中学生の頃でした。
文学かぶれしていた少年は、堕落という甘美な響きにひかれて読んでみたのですが、理解できるはずもありません。ですが、年を重ねるにしたがって、そして今回の震災が起きて、やっとやっと、坂口安吾の「論」の輪郭がわかってきました。
二週間まえは地震と津波のニュースでした。
復旧・復興を願う日本人は、美しい「和」の精神でまとまっていました。
再び鶴田浩之(@mocchicc)さんが制作したhttp://prayforjapan.jp/message/から引用させていただきます。
昨日の夜中、大学から徒歩で帰宅する道すがら、とっくに閉店したパン屋のおばちゃんが無料でパン配給していた。こんな喧噪のなかでも自分にできること見つけて実践している人に感動。心温まった。東京も捨てたもんじゃないな。
都心から4時間かけて歩いて思った。歩道は溢れんばかりの人だったが、皆整然と黙々と歩いていた。コンビニはじめ各店舗も淡々と仕事していた。ネットのインフラは揺れに耐え抜き、各地では帰宅困難者受け入れ施設が開設され、鉄道も復旧して終夜運転するという。凄い国だよ。GDP何位とか関係ない。
物が散乱しているスーパーで、落ちているものを律儀に拾い、そして列に黙って並んでお金を払って買い物をする。運転再開した電車で混んでるのに妊婦に席を譲るお年寄り。この光景を見て外国人は絶句したようだ。本当だろう、この話。すごいよ日本。
ところが二週間目になると、福島第一原子力発電所の災害と放射能被害の報道が多くなります。東京都内のガソリンスタンドが売り切れで閉店し、スーパーマーケットから、米と水と牛乳とトイレットペーパーが陳列棚からなくなります。AERA、東京電力、ACジャパンには抗議が殺到したそうです。これから数ヶ月の間、品目にかかわらず、福島県産の野菜を買わない消費者が出現するのでしょう。
岡田斗司夫さんがご自身のブログで、この現象を「3次災害…社会不安」「4次災害…モンスター化する我々」と、じつに的確な分析と提言をしています。
さて、坂口安吾は
戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱(ぜいじゃく)であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
と、人間のどうしようもなさを訴えています。
「とっくに閉店したパン屋のおばちゃん」や「スーパーで、落ちているものを律儀」に拾っていた人が、今はペットボトルを買い占めていてもおかしくない。
そんな人間の本質をえぐり出したのが、坂口安吾の「堕落論」。
しかし、この重い現実を受け入れたうえで、以下のこと述べ論を結びます。
堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
震災から二週間が過ぎた今、よろしければ、坂口安吾「堕落論」をぜひ。
青空文庫●図書カード「堕落論」