2009年9月1日。
衆議院選挙が開票され、政権交代が起きた日の翌朝。
私は「政治なのに文学的になった夜だった」というエントリーをしています。
統一地方選挙、開票をまえに読み返してみました。
政権交代!
鳩山内閣誕生!
自民党、大物議員、続々落選!
漢字だ。
我が家のテレビに流れるテロップは、どれも漢字だった。
起きたことは戦後政治史において、画期的なのはわかる。
でも、どの番組を観ても「感じ」が伝わってこなかった。
漢字で書き、漢字を話をしている気がした。
いつも、漢字好きな、つまり概念の中で生きるのが好きな私だが、こうみんなに漢字を使われると、かえって冷める。
民主党の獲得議席も、激戦区の動向もどうでもよくなって、テレビ画面を眺めがら、まったく別のことを考えはじめた。
「国民が主役の」と言っている人の、軽井沢の別荘の前を通ったことがある。
あの広大な別荘を国民は持っていない。
「子ども手当て、2万6千円のマニフェストは守るんですね」とその人に話をしているキャスターのギャラは、一晩で数百万だ。
入閣が噂される民間人を、テレビ局の人たちは知っていて、あえてコメンテーターにしていない。
バンザイにダルマも世間ズレしていると思うが、のぼりを持って自転車に乗るのもどうかと思う。
こうした候補者を見て、『ドラゴンクエスト9』のサンディだったら、何て言うだろうか。
参政権のない、ガングロの妖精の意見を聞いてみたい。
心、ここにあらずの状態で、画面を眺めていると、そんなシニカルなことばかりを考えてしまう。
現実に何か大きなことが起きているらしい。
でも、ウソっぽい。
私は、現実の中の虚構を私は見ている。
……ような、感じがする。
いや、虚構という現実を見ているのだろうか。
夢か現(うつつ)か、現か夢か。
「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」。
気分は『胡蝶の夢』だ。
この空恐ろしいフィクションのようなノンフィクションを、バレないようにしているのはネクタイかもしれない。私は急に、政治家とキャスターとコメンテーターの服装が、気になりはじめる。
だが、あまり意味はなかった。
一緒だ。
そこにもまた、虚と実が混ざっている。
スタイリストがついている人物と、そうでない人物の見分けがついてしまう。
幅広のレジメンタルストライプのネクタイをしている派と、それ以外の人という見方もできる。レジメンタルといえば、イギリスの連隊を示す柄。トラディショナル・ファッションのシンボルだ。
「風が吹いた」。
「逆風の中での苦戦した」。
比喩は「風」がほとんどだった。
風の話は聞き飽きた。
「私の不徳の致すところ」。
「敗軍の将、兵を語らず」。
敗者の言葉も陳腐だ。
私が落選候補者の参謀なら、名コピーを思いついてから選挙事務所入りすることをすすめるのに。
テレビに映る誰の言葉も冴えていない。
石原慎太郎だけは違った。
「自民党は軽蔑されたから負けた」ときっぱり言い切った。
蔑は漢字だが、「感じ」が伝わった。
「首相が漢字を読めないとか、任期中の県知事に出馬を頼みに行くとか、国民から軽蔑されるようなことをするから負けるんだ。反対意見や怒りの感情を鎮めることができても、軽蔑された者は信用を取りもどすことができない」。
蔑という字は下品すぎて、危険すぎて、他のテレビの登場人物たちが、無意識のうちに避けている文字だったが、それを使ってしまうところが、良くも悪くも石原慎太郎だ。
それにひきかえ、ただただ、失礼な記者がいた。
麻生太郎という、この日、最も惨めな思いをしている人に、こんなことを言った。
「いわゆる“麻生おろし”があったときに辞めていればよかったとは思いませんか?」。
そんなことを尋ねて、なんの意味があるのだろう。
今、政治の話をしているが、明日、大地震があったら、どうするんだろう? みんな。
その、みんなは誰を指すのかがわからない。
わからないが、なんとなくみんなのことを考えている。
地震、台風、インフルエンザ。
比例東京ブロックの票数よりも、天変地異が気にかかる。
心、ここにあらずの状態で、思いつくままに思考してはやめる行為にも飽きて、就寝。
眠りについたのは、たぶん午前2時。
睡眠不足の朝。
街は驚くほど静か。
電車に乗っている人は誰も口をきかない。
昨夜の選挙の話すらしていない。
そして、新聞を読んでいる人が少ないような気もした。
政権交代なんて、まるで他人事で、遠い日の思い出のようだ。
この景色が幸福なのか、不幸なのかもわからない。
明らかに変わったのは気温だ。
虫の声だ。
9月1日。
季節は夏から秋へと変わった。
なう。