再掲載|「ゲームソフト流通物語(1)」
- Day:2011.05.31 12:39
- Cat:ゲーム
私が1991年頃に書いた未公開原稿です。
(1)で中断しておりましたが、考えるところあって再開します。
以下、短いエントリーですが本文を再掲いたしました。
■異文化のビジネスマン、流通業界の話
年開け早々の1月上旬、アメリカ・ネバタ州ラスベガスにある最高級ホテル「ホテル・トロピカーナ」の客室フロアの廊下を、思い思いの浴衣を着て歩く、中年男性の団体客を見かけたら、それはおそらく日本からやってきた玩具問屋の御一行様である。コンシューマ・エレクトロニクス・ショー(Consumer Electronics Show/略称CES)は、例年、夏期はシカゴで、冬期はラスベガスで行われる(当時)。
このショーには、アメリカ市場向けのゲームソフトが多数出展されるので、この時期になると日本からソフトメーカー社員をはじめ、関係マスコミ、流通関係者が大挙して「視察」に訪れるのだ。
浴衣でホテルを闊歩する彼らは、ゲームビジネスにあって、固有の文化を持って生きている。
なにせ、彼らはほんの数年前までは、鯉のぼり、着せ替え人形にプラモデル、三輪車や、シンバルを叩く猿、赤ん坊のガラガラや、水鉄砲を売っていた。なのに、ファミコンが登場した以降は、コンピュータソフトなるものをあつかわなくてはいけなくなった。そして今では、日本のありとあらゆる家庭用ゲーム機とその対応ソフトのほとんどすべてを、彼ら「玩具流通」が市場に送り届けなくてはならない。
本稿を通じて、私が心を込めて言いたいことは、ただひとつ。
彼らにもっと同情を!
1983年の頃。玩具流通業界は、気安い気持ちでファミコンとファミコンソフトをあつかい商品に加えた。何はなくともファミコンは、玩具流通業界とのつき合いは長い――老舗・任天堂の製品である。しかも近年は同社の「ゲーム&ウオッチ」(80年発売)で、流通各業社はずいぶん儲けさせてもらった。その任天堂の製品を、「扱えません」と彼らが断る理由は、どこにもないからだ。
仮にこの時、「ファミリーコンピュータはコンピュータですから、玩具以外の流通を通してお売りになってはいかがですか? 任天堂さん」と彼らが言っていたなら、また今とは違うファミコン、また今とは違う任天堂、また今とは違う産業構造と文化が、この世に生まれていたはずだ。
しかしながら、彼らは何の疑いもなく、ただ任天堂の製品という理由から、ファミリーコンピュータをあつかっていたのだ。ところが、そんな彼らの気軽な意志決定は、軽率ではなかった。軽率どころか、のちにかなりの幸運を招くことになるのだ。たとえればこの幸運は、生まれてはじめてパチンコ店に入った女子大生が、最初に買った300円の貸玉で「777」が出たようなもの。ファミコンはフィーバーするのだ。
ファミコン本体は、発売初年にあたる83年、ほぼ5ヶ月半の間で45万台が売れている。ハードの上代を単純計算しただけでも、66億円相当になろう。これだけの金額が、それこそ目にも止まらないうちに、彼らの当座預金やレジスターを通り過ぎていった。彼らにとってファミコンは、円高不況のさなかの思わぬ天の恵みになったのだ。玩具流通は、ファミコンで潤う。
だが、こんな儲けは序曲……いや、序曲の楽譜がオーケストラのメンバーに配られた程度にすぎない。翌年からファミコンは、さらに売れ出す。ハードが普及すれば、つられてソフトも稼ぎ出すようになった。初期のファミコンソフトは、何十万本単位で売れるのが当たり前だったから、ハード・ソフトが一体になって荒稼ぎをはじめたのだ。玩具流通では画期的なことである。ちなみに発売当初のファミコン本体の年別販売台数は、
83年、45万台。
84年、165万台。
85年、374万台。
86年、383万台。
「倍々ゲーム」……とはよく言ったもので、この慣用句は当時のファミコンのためにあるようなものであった。
■ファミコンブームは去るはずだった
ファミコンが発売された直後、玩具流通業のマネージメントの仕方は、きわめてシンプルだった。仕入担当者も、販売担当者も、在庫管理担者も、財務担当者も、ただ一点の指標のみを、正しく導いていけばいい。そうすれば彼らの経営は、すべてうまくいった。
その指標とは、取り扱い商品の《ゲーム》対《非ゲーム》の比率を、上手にコントロールしていくこと。商売が人気商品ファミコンに偏りすぎてはいないか、彼らは常に慎重であろうとした。
ファミコンははじめ、ルービックキューブのようなブームだと思われている。
いくら今は飛ぶように売れているとはいっても、ファミコンブームなどはいつ終わるか、わかったものではない。彼らにとって発売初期のファミコンは、売れるのはうれしいが、警戒すべき商品でもあったのだ。「儲けを逃さず、かといってブームが終わった時に在庫を抱えすぎず」……彼らは惜しみなく、この一点に気を配った。
流通業者が抱える10個の在庫は、100個の販売が生む利益を、ペロリと飲み込む狼である。彼らは、この世の春を謳歌しながらも、赤ずきんちゃんのように、狼がやってくるのを恐れた。彼らは、在庫という狼が牙をむくのにおびえながら、花を摘み、蜜を絞ったのである。この頃の玩具業界の業界紙(玩具通信)を読むと「貴店のゲームの売上比率が、40%を越えたら、それは赤信号のサインです」といった、《ゲーム》対《非ゲーム》の比率を論じた記事が、しばしば掲載されている。
玩具流通では問屋も小売店も、懸命になって《ゲーム》を売っている。しかし、《非ゲーム》もおろそかにしない。単価が安くて悲しくなるような水鉄砲でも、場所をとって仕方のない三輪車でも、限られた季節にしか売れない五月人形でも、彼らはきまじめに売った。彼らはブームに浮かれることなく、従来のサービスも、けして怠らなかったのだ。
ファミコン……という幸運が訪れた後の玩具流通は、いたって正常なバランス感覚を持っている。そう断言してもいいのだろう。ビジネスにはリスクヘッジがつきものだ。さすがに彼らは、流行りすたりが激しい玩具の世界の歴戦のビジネスマン。「777」を出したからといっても、手放しで単純に喜ぶようなヘマはしなかった。
だが、同情すべきはここから先の話である。幸か不幸か、ファミコンブームは終わらないのだ。それどころか、サードパーティが加わって、発売されるファミコンソフトのタイトル数は増えるいっぽうになる。
ちなみに1年間のファミコンソフト発売タイトル数は、
83年、10タイトル。
84年、19タイトル。
85年、66タイトル。
86年、115タイトル。
ファミコンソフトは、異常なまでのペースでタイトル数を増やしていくのだった。この事態は、ある意味で玩具流通にとっては誤算であった。
(続く)