Hisakazu Hirabayashi * Official Blog「ゲームソフト流通物語(4)」

「ゲームソフト流通物語(4)」

■「鶏鶏鶏鶏鶏鶴鶏鶏鶏鶏鶏」時代に突入

 ところで奇怪に思われそうなのは、この見出し「鶏鶏鶏鶏鶏鶴鶏鶏鶏鶏鶏」である。
 「鶏鶏鶏鶏鶏鶴鶏鶏鶏鶏鶏」と書いて、これを鶏群の一鶴(ぐんけいのいっかく)と読んでもらいたい。
 掃き溜めの中の鶴、という慣用句の語源ともされる鶏群の一鶴は、任天堂・山内溥社長(注・肩開きは当時)がしばしば口にするたとえ話だ。

 生活必需品ではない娯楽の商品は、品数さえたくさんそろっていれば、いいわけではない。その中で、群を抜いておもしろいものがなければダメだ。平凡な鶏ばかり集まっても市場は活性化しない。必要なのは鶴。非凡な少数の鶴こそ、娯楽の市場をリードするという意味が込められている。山内社長は娯楽マーケットの特性を言いあらわす時、しばしば鶏群の一鶴の比喩を用いた。ちなみに同社長の説は、その鶴だけが勝つ「一強皆弱」という言葉に続く。

 山内溥社長の鶏群の一鶴発言を、はじめて私が聞いたのは、87年6月、あるソフトの発表記者会見だった。
 任天堂はこの年、フジテレビジョンとタイアップして、『夢工場ドキドキパニック』というゲームをつくっている。タイアップと言っても、このゲームはのちにアメリカでは「スーパーマリオブラザーズ2」の名前で発売されたことからもわかるように、任天堂製のゲームソフトである。



 フジテレビはこの年、東京都中央区晴海で「夢工場」というイベントを企画している。
その事業の一貫として、ファミコンソフトの販売を行ったのだった。そのソフト製作を特に任天堂に依頼。それを受けた任天堂が、『夢工場ドキドキパニック』のお披露目の記者会見にも立ち会ったというわけだ。

 『夢工場ドキドキパニック』の発表記者会見席上、山内社長は当時のゲーム業界全体を展望して、「近ごろのファミコンソフトは、ブロイラーのように個性がない、鶏みたいなソフトが多すぎる」と一刀両断した。そしてくだんの鶏群の一鶴理論を展開。最後は、「任天堂がつくった『夢工場ドキドキパニック』は、鶴だから、その鶴を見逃さないように、よろしくお願いします」と話を結んでいる。

 山内社長のスピーチは迫力があった。ファミリーコンピュータが発売されて4年を迎えたこの夏、ファミコンは鶏群つまり、凡庸なゲームに取り囲まれるようになってしまったことを、自らが認め、なお、喝を入れる意気に満ちていた。

 前述した発売元のエゴがあまりにも目にあまるようになってきたのは、ちょうど1987年のこの頃だった。エゴと決めつけるのが早計だとしても、鶏たちが一気に群れをなしたのは間違いない。

 もう一度、1年間のファミコンソフト発売タイトル数を書くと、
 83年、10タイトル。
 84年、19タイトル。
 85年、66タイトル。
 86年、115タイトル。
 ここまではすでに触れた。

 それが87年になると、189タイトルに、また跳ね上がるのだった。
 前年のほぼ六割増である。つまり1987年の夏は、おびただしい数のひよこが、鶏になっていく真っ盛りだったのだ。そこで、言わずにおけなかったのが、山内社長の鶏群の一鶴発言だったのだろう。
 
 よくわれわれは、家電AV機器やパソコンの広告などで、「豊富な○○タイトルのソフトが用意されています」という触れ込みを見かける。だが、この論法は山内社長には通用しない。
 
 「アタリショック」を教訓とし、ソフトの粗製乱造を警戒してファミコンのビジネス構造を考えた山内社長は、危機に対して敏感だ。任天堂の歴史をさかのぼれば、業績が乱高下した会社である。そんな経験則もあるからだろう。

 ちなみにこの時の山内社長は、鶏をたくさん生んでしまう、シビアな選別がされない業界構造に、任天堂の製造委託方式に一因があるとはもちろん言っていない。

 仮に、数週間でファミコンソフトが製造でき、ユーザーの好みがダイレクトに伝わるしくみになれば、ことは解決するのだろうか? それでも多分、鶏は減らないし、鶴は増えないだろう。短期間で製造できるディスクシステム用ソフトに非協力的だったのは、ソフト発売元。最もユーザーの好みがダイレクトに伝わる電話回線による書き換えに抵抗したのは、問屋各社だった。(注・ディスクシステム興亡史を参照)
 
 任天堂が製造委託によって利益を放棄し、ソフト発売元に利益を還元すれば、ソフトの質は上がるのか? そしたらソフト発売元はもっと儲けようとして、鶏はさらに増えるだろう。
 山内社長はおそらく、「任天堂の製造委託をとやかく言う前に、やるべきことがあるだろう」と考えている。

 話は拡散してしまったが、この山内社長の発言を通じて私が言いたいことは、次の二点につきる。
 1.1987年、ファミコンソフトは完全に鶏群時代に突入している。189タイトルという数字が示しているし、任天堂社長自らがそのことを指摘している。
 2.鶏群の問題について任天堂は、ソフト発売元側の努力不足だと言っている。そしてその中から鶴を発見するのは流通の仕事だと言っている。

■問屋の実績主義、発見しにくい鶴

 ファミコンソフトは鶏群の一鶴の時代になっている。
 問屋は、もう「ソフトの良し悪しを判断するのが苦手」などとは言っていられなくなったのだった。
 いかに鯉のぼり体質の中で育ったとはいえ、鶏と鶴の区別をしないことには、彼らはおつきあいに疲れて、倒れてしまう。
 そんな環境に追い込まれて、彼らが考えついたのは、過去の事例を重んじて、ゲームソフトの仕入量を決めるやり方だった。

 あるゲームがある。
 それをプレイする。
 おもしろさを感じる。
 顧客の顔を思い浮かべる。
 のちの反応も予想する。
 それから顧客の総数をはじき出してみる……。

 本来ならば仕入量とは、こんな手順を踏んで、多分に未来予測の要素を含んで決められるべきである。
 だが、実際には玩具問屋が、何よりもこだわったのは過去の実績だった。

 リスクが大きい商品――玩具をあつかってきた彼らは、いざという時に、どうしても保身的な方向に思考が行ってしまったようだ。それに、すでに述べたように彼らは、完成したゲームソフトをプレイしないで発注するシステムの中に組み込まれてもいる。
 
 玩具流通は、未来予測をしないで経験から物事を考えた。そして、彼らは彼らなりの公式を発見するのだ。
 ここでは仮に、「ゲームソフト初期販売本数決定の10大要素」とでも呼ぼうか。
 玩具問屋各社は、以下の要素を体系立てて判断の基準にしているわけではないのだけど、だいたい次のような優先順位でゲームソフトを評価し、ゲームソフトの仕入量を決めていた。
 
 つまりわれわれが「すごく売れた」とか、「たいして売れない」とか、日頃気にしているゲームソフトの発売本数とは、以下の判断基準のふるいにかけられて決まっているのだ。

◎ゲームソフト初期販売本数決定の10大要素

1.発売元名……会社の知名度はあるか? 潜在的な販売力はあるか? 近作の売れ行きはいいか? 近作の在庫率は? ブランドイメージは?

2.宣伝・販売促進計画……宣伝予算は多いか?(テレビCMはあるか?) 雑誌などのパブリシティは望めるか?

3.タイトル……ゲームタイトルに訴求力はあるか? たとえば、人気キャラクターや有名人とのタイアップで商品認知は約束されるか? 過去の人気ゲームのシリーズもので安定的なファン層がついているか?

4.個性……ゲームにわかりやすい特徴はあるか? またそれは、実際にやってみなくても、話を聞いただけでもおもしろそうなくらいにインパクトはあるか?

5.見ばえ……ゲームを静止画像で見た時の画面はきれいか? また派手な印象を与えるか?

6.移植前の実績……アーケードゲームやパソコンゲームの移植作の場合、移植前の実績はどうか?

7.作品の評価……実際にプレイしておもしろいか? 口コミは期待できるか?

8.作者……原作・シナリオ・キャラクターデザイン・音楽の作者が、有名で実績のある人物か?

9.トレンド……ゲームの扱う題材が時節に合っているか?(プロ野球ゲームならばシーズン開幕時に発売されるか、等)

10.競合市場分析……他の人気ゲームとバッティングはしていないか?

 これならば、7を除くすべてが、1セットの新製品案内資料でも判断できてしまうのがわかるだろう。
 じつに便利な物差しだと言える。

 しかもこの1から10の実績重視の物差しは、かなりの正確さを誇っている。
 不良在庫の苦い経験をしてきたビジネスマンが編み出しただけのことはあって、そう多くのあやまちを犯さない。早い話、特に重要な1と3、有名な会社の有名なゲームはやはり売れるし、無名な会社の無名なゲームがよく売れることはまれだった。
 
 ただし、この物差しには問題があった。
 短期的な判断をするうえで有効だが、長い目で見ればゲームビジネスをミスリードした元凶でもある。業界に定着した実績重視の価値観は、コンピュータゲームが本来持ち続けてきた発明精神を、変えてしまうのに十分の威力を持っていた。

 玩具流通が、ゲームソフト発売元に暗に求めたのは、冒険ではなくて安全。その結果、ファミコンソフトのおもしろさは、ボディブローを浴びたボクサーのように、だんだんと精気を失せていくのだ。あえて短絡的に述べてしまうと、ゲームデザインの保守化が進む。 

 なんとも皮肉なことに、鶏の中から鶴を見つけるはずの価値基準が、かえって鶏を増やしてしまうことにつながっていくのだ。

 ゲームデザインの保守化について、具体的に示してみようか。
 もう一度、1から10までの箇条書きの確認を。当時から現在にいたるまで、巷にあふれかえる鶏たちのほとんどが、これら価値基準と何らかの因果関係がある。
 
 3は、何を生んだのだろう。「キャラクターもの」と「有名人の冠ソフト」と「シリーズもの」という名の鶏だ。のちにブロイラーのように繁殖した。
 4は、本来なら難しいことだ。だが、割り切れば簡単なことでもある。他のアイデアにわかりやすい付加アイデアを与える程度でよければ、そこそこの鶏は、いくらでも生むことができる。
 5はまず、ゲーム作家の意識に悪影響を与えた。ゲームデザインとは「独自のルール」を考えることではなく、「見せ方」と「グラフィックを強化する」ことと勘違いするゲーム作家を多数育成した。
 6はアイデアを使い回した鶏を生み、8は何のゲームへの見識もない、著名人がつくったことにした鶏を生んだ。
 
 多くのゲームソフト発売元は、1と7は常に放置している。ブランドイメージを良くし、すぐれたゲームをつくるのは、最も手間がかかることだからだ。特に新規参入したゲーム会社は、手っ取り早く攻めやすいところから攻めなくてはいけなかった。攻めたのは、3、4、5、6、8、9、10。
 
 だが、これをやればやるほど1のレベルは相対的に下がり、7、つまりすぐれたゲームも生みにくい。そうこうするうちに、発売元間格差は広がって、2の差もますます広がっていってしまう。開発費や開発期間の差も大きくなって、7の差はさらに歴然としてくる。そして競争に落ちこぼれそうになった会社は、必死に3、4、5、6、8、9、10の公式をまた逆手にとって、問屋好みのするソフトづくりに励む……。
 
 この悪循環を指して「ゲームデザインの硬直化」と私は呼んでいる。
 いったい彼らは何をやっているのだろう。悲しい。これではまるで鶏たちの堂々めぐりである。

 玩具流通の問屋は、ユーザーの目の届かないところで、仕事をしている。
 倉庫を管理し、トラックでゲームソフトを店舗に運んでいる。われわれの手元にゲームソフトが届いているのは彼らの勤労のおかげなのだ。感謝こそすれ、非難してならない。また、その過程で彼らが何を仕入れ、いかほどの在庫を残し、どれだけの利益をあげようとも、法を犯さないかぎり自由である。
 
 返品ができようと、できなかろうと。現金取引をしようが、手形決済をしようが。われわれは玩具流通のビジネスに、妙な口をはさんではいけない。

 しかしながら、モノを流通させる人々が、モノつくる人の価値を、あまりにも縛りつけてしまうのは、結果論として罪深い。
 
 多かれ少なかれ、どの業界どの業種でも、流通業とはつくり手の価値を縛る宿命を持っている。だが、ゲームソフトの場合、コンピュータゲームが本来進んでいく姿と、流通が求める姿が違いすぎている。
 
 突然に私見を述べるが、ファミコンソフトのゲームデザインは、80年代の後半から90年の前半にかけて停滞期に入る。「新しい刺激こそ美徳」とする、ゲーム業界特有の気風は、この時期、急速にしぼむのだ。

 ゲームビジネスに触れて日が浅い人にとって、1から10の物差しは目新しいものかもしれない。
 けれども、これくらいのことは、ゲーム業界に属す者ならば、誰もが知っていることでもある。
 問屋はどういうゲームを求めるのか?
 
 経営者は腹の底から知り、営業マンは肌交渉相手の顔色で知り、マーケッターは頭で知っている。
 ゲームソフト初期販売本数決定の10大要因? こんな大げさなタイトルは、笑い飛ばしたくなるくらいに、業界の皆が「問屋はどういうゲームを求めるのか」を体内にすり込まれている。

 そんな無茶苦茶なことをしていても、ゲームビジネスは死滅しないのはなぜか。
 超一流のゲームのつくり手が救ってくれているからだ。

 超一流? 問屋はどういうゲームを求めるのか、骨の髄まですべてを知ったうえで、1から10のすべてを無視できる。超一流とは、流通の価値観に振り回されないで仕事をできる人々のことである。ゲームビジネスを本当に動かしているのは、1から10を無視して生きる人たちだ。

(つづく)

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