Hisakazu Hirabayashi * Official Blog原子爆弾とテレビゲーム

原子爆弾とテレビゲーム

コーネル大学・大学院生のころに、開戦を迎えたウィリー・ヒギンボーサム<William (Willy) A. Higinbotham>博士は、「マンハッタン計画」に参加することになった。博士は電子部門のチーフを担当。わが国に投下された原子爆弾の爆発を制御する回路は、彼の設計によるものだった。

ウィリー・ヒギンボーサム博士は、自らの研究が原子爆弾の製造に使われることを知らされていなかった。そして、実際にその爆弾が投下されたことを悔いた。大げさな言い方をすれば、将来、十字架を背負って生きることになる。

終戦を迎えると、博士はニューヨーク州にあるブルックヘイブン国立研究所に在籍することになる。電子回路の専門家は、軍事とはまったく関係ないもの。平和なコンピュータの利用方法として、「遊びに利用すること」を考えた。そうして生まれたのが『Tennis for Two』だ。



「世界初のテレビゲーム」の定義は諸説あるが、『Tennis for Two』とする説が最も有力ではないか、というのが私の見解だ。オシロスコープを使ったこのゲームが生まれたのは1958年のことだった。

私は一度、この研究所を訪れたことがあるが、子どもたちがたくさん来ていた。日本で言うならば、ニューヨーク州の子どもたちの「社会見学」の定番コースだ。1958年当時も、博士はコンピュータの素晴らしさを子どもたちに伝えるため、難しい技術解説ではなく、遊びを用いた。

博士は自身の研究が原子爆弾に使われたことを悔やんだ(と推定できる)。のちに博士は、米国科学者連盟理事として核拡散防止のため政府と調停活動を行っていた資料が残っている。

また、博士は核兵器拡散防止団体(Federation of American Scientists)の初代議長と最高顧問を務めている。

原子爆弾の回路設計者が、反核を主張する科学者へ。
この苦悩の人生の道程の途中に「世界初のテレビゲーム」とされる『Tennis for Two』がある。

博士の功績は、「世界初のテレビゲーム」をつくったことだけではなかった。ブルックヘイブン国立研究所では、研究成果をすべて特許出願するのが規則があったが、博士はそれを拒んだ。

特許出願をしてしまうと、このコンピュータを使った遊びを「他の人がつくれなくなってしまうから」というのが、その理由だ。

8月6日。広島に原爆が投下された日は、ニュースが通りいっぺんになる。今年の場合は、原発問題とからめた報道もあったが。だが、この日に「ゲーム」の語る人は少ない。1945年8月6日は、1958年に世界初のテレビゲームを生む、そして、現在への道筋をつなぐ、遠因ともなった日である。

ウィリー・ヒギンボーサム博士は1994年11月10日に永眠した。
日本では、その12日後にセガサターンが発売された。
翌月12月3日に、プレイステーションが発売された。

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▲1945年8月7日発行のThe New York Times.

Comment

No title
この博士は、ゲームをどんな風に見てきたのだろう?
コンピュータがもらたす、平和的な使い方というのを一番理解していた人のようにも思える。

物を作る人が一番の喜びを感じるのは、それを使う人たちが、笑い・喜んでいる姿なのではないだろうか?

文化や言語は人と人の間に壁を作ってしまうが、笑いや遊びの中には人間の持つ共通の感情がある。
それらを可能にするツールとしてゲームはさらに発展して欲しいと思う。
  • 2011/08/07 16:37
  • 桜 優之介
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  • 2011/08/12 12:45
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