Hisakazu Hirabayashi * Official Blogカルチョビット評、きっこのブログ風

カルチョビット評、きっこのブログ風

9月13日の深夜の出来事でした。
私が、ブログでmixiの『カルチョビット』のコミュニティに入っていると書いたことがきっかけで、過去に書いた同ソフトの評をTwitterで連投いたしました。その文体や語彙選びは、当時の「きっこのブログ」をマネたものです。

『カルチョビット』は2006年5月に発売されたソフトです。
それ以前から同事件を頻繁に取り上げ、内部事情にあまりにも詳しいことから、「きっこ」というのは実在しない人物で政治部記者が変名で書いているのではないか? という憶測も飛びかったくらいに注目を浴びてました。

で、どうしたことか『カルチョビット』というゲームボーイ・アドバンスの一本のソフトのことを「きっこのブログ風」で書いていたのですね。

まとめました。
‥‥というか、これを原文にしてツイートをしておりました。


カルチョビット評、きっこのブログ風


5月18日の木曜日の夜にビックカメラ・渋谷東口店で『カルチョビット』を買って以来、起きている時間は、ほとんどと言ってよいくらい、このゲームをやりまくっている。その感想などをブログに書こうか、と無意識に遊んでいると、なぜか頭の中で紡がれていく文章が、ライブドア事件の内幕などに異様に詳しくて、巷ではなにかと話題の「きっこのブログ」の文体になってしまった。なぜなんだろう? きっと、この数日間に多くのことを感じすぎて、それはコンパクトにまとまったレビューなどではなく、つらつらつらつらと夥しい分量の長文にしなさい、と、これまた自分の脳のどこかが無意識に命令をしているんではないかと思った。‥‥そんなワケで、これから綴る文章は異様に長い。

ドラクエの堀井さん、マリオの宮本さん……というような作品+作者の呼び方は、呼んでいるほうは敬意を払っているつもりでも、呼ばれているほうはあまり心地よくないのだ、ということを若い頃にゼビウスの遠藤さんから教わった。このお教えはじつにタメになり、こういう呼び方をするのは極力さけてきたけれど、今日は文体がいつもと違うので許してもらって、ダビスタの薗部さんと呼ばせてもらう。その、ダビスタの薗部さんがつくっているというワケで、『カルチョビット』にはずっとまえから注目をしていた。野球がテーマ、『ベストプレープロ野球』、競馬がテーマ、『ダービースタリオン』ときて、「次にやるならサッカー」という話は、もう何年もまえに薗部さんから直接聞いていた。それもカッチョいいグラフィックに頼るのではなく、「記号みたいなキャラクターにしてみる」と挑戦的なことを言っていたのも覚えている。あの、記憶の中になるソフトが今、手のひらの中なのだ。

にしても『ベストプレープロ野球』がはじめて世に出たのは80年代で、『ダービースタリオン』がはじめて世に出たのは90年代で、21世紀になって『カルチョビット』と、薗部さんの寡作ぶりには、なんとも頭が下がります、と思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

‥‥そんなワケで『カルチョビット』をやりまくっているうちにわかったことがあって、それはこのゲームの凄さは「見る」と「やる」のバランスの凄さにある、ということ。仕事の合間でも、家庭で料理をしている間でも、ひとり寂しく食事の途中であったとしても、「やる」べきことを、チョビット指示を出しておけば、ゲームボーイ・アドバンスが勝手に試合を進めてくれたりする。時間に余裕があるならば、試合をじっくり「見る」に越したことはない。そのほうが選手とチームの状態がよくわかる。きめ細かな選手起用ができる。こんな風に、自分の時間の都合にあわせて、好きなように遊べるのが『カルチョビット』なのだった。今、PCに向かってこうやって文章を書いている最中でも、我がタイガー阪神(登録したチーム名)はNリーグディビジョン2のリーグ戦第9節を戦っている最中だ。

……と読んでみても、イマイチ何が凄いのか、わからないでしょう、たぶん。さあ、ここからやっと本題のつもりで、言いたいことを言いはじめるのだけど、『カルチョビット』はよくできたゲームデザイン、なんかよりもはるかに凄い、よくできたゲームライフデザインなのだと言っておく。よーするに、他の凡百のゲームとは違って、クリエイターがやりたいことや技術の制約……などを振りかざすのではなく、遊び手の「生活」という視点から考えられたゲームであるということなのだ。この着眼点、それをまんまと表現してしまったパワーに、『カルチョビット』の斬新さを感じている。

ゲームデザインすることは難しいが、ある意味、簡単だ。ゲームをデザインすればいいのだから。でも、それを実際に手にとって、遊びまくってもらうためには、遊び手の日々の生活ってやつを十分に考えてゲームデザインをしなくてはいけない。現代人というやつは、たいていが「忙しい、忙しい」と口に出して言わないまでも、忙しい日々を送っている。オトナもコドモも、だ。そういう人たちに遊んでもらおうと思ったら、今までゲーム業界でそれが成功への絶対条件と信じられてきた足し算的発想は、きっぱりとやめなきゃいけない、と『カルチョビット』は、そんなこと、どこにも書いてないけど、メッセージしている。

ゲームデザインがステキなゲームはいっぱいある。だけど、これらゲームの問題点は、そのステキなゲームデザインに遊び手があわせようとすると、トンデモナイ生活がはじまってしまう、なんてことが、往々にして起きてしまう点だ。2日間徹夜とか、そのうち学校や会社を休むとか。人はゲームをしたい気持ちと、生活を壊したくない気持ちと「どっちが強いか」と聞かれたら、当然、生活を壊したくない気持ちが強い。なので、自然な流れとして、どんなにステキなゲームデザインが目の前にあったとしても、「もう、あんまりゲームしない」という心理になりがちになる。

そこのところがわかっていないゲームの開発者は、「これでもか」という勢いで足し算をする。ライバル製品よりも、ここが凄いと足し算、シリーズ作品ならば前作よりもここが凄いと足し算。とにかく、足し算。仕様の追加、システムのバージョンアップ、データの拡充、ニューキャラクターの登場、新たなゲーム性……こんな調子で、世の中のゲームは足し算であふれかえってしまうのだ。

薗部さんはきっと、この足し算のオンパレードとなる最近のゲームデザインをアルマジロ行為と考えたのでしょう。

サッカー。
監督。
チーム育成。

この3つをお題にしてプレイヤーが楽しむためには、何を引き算すればいいのか? 引いて引いて引きまくって、出した答えが勝手に言い切ってしまうが、『カルチョビット』なのである。

こんなにプレイヤーの生活に密着した『カルチョビット』。ゲームデザインとは、ただゲームをデザインするだけではなく、それを遊ぶ人の生活をもデザインしてあげる姿勢が必要なのだよーと、じつは、訴えかけているように思える『カルチョビット』。極端なことを言うと、もし世の中のゲームがすべてのゲームが『カルチョビット』の思想でつくられていたなら、97年以降、ゲームソフトの売上は落ちてきて、人様から「ゲーム離れ」などと呼ばれるようになってしまったが、そんなことは起きてなかったと思うし、ということはニンテンドーDSもWiiも、ユーザー離れを食いとめる新ハードがわざわざ開発されなくてもよかったのではないかとも思う。まあ、これは極論であることを承知で言っているが。

極論ついでに言うと、日本中、いや、世界中で『カルチョビット』が爆発的大ヒットになって、もう信じられないくらいにバカ売れして、世の中全体が引き算ブームになったらオモシロイことが起きると思う。ゲームソフトの広告を見ると、最新作はあれとこれを無くしました! と、どこを引いたが、たくさん書いてあったりして。それもまた、良い世の中だったりして。


考えてみれば、アートやデザインの世界では、「一切の無駄を省いた」というのは常套句として使われる。じつは今日、西洋美術史の授業でヨハネス・フェルメールをとりあげていて、その参考映像として「美の巨人」たちのDVDを観たのだけど、代表作「牛乳を注ぐ女」をナレーターの小林薫は何回も「一切の無駄を省いた」と語っていた。デザインの分野では無印良品は「一切の無駄を省いた」の好例。ところがゲームソフトの世界では、「省く」という表現は好まれない。なんだか、退化や安っぽさを連想させてしまうからだ。しいていえば、シンプルシリーズというのがあるが、惜しいことに、1500円とか2000円とか、その省いたことによる効果が作品性ではなく、安い価格、という商品性に結びついて語られてしまっているので、アートやデザインとその見える景色は違ってくる。

話をクルリンパと戻す。‥‥そんなワケで、『カルチョビット』をこういう文脈で語り出すと、サカつくというゲームを引き合いに出さないわけにはいけない。サカつくはサッカーのシミュレーションゲームという分野を切りひらいた偉大なゲームだ。でも、これは典型的な足し算を重ねてきたゲームシリーズで、それはステキなゲームデザインかもしれないが、プレイヤーのゲームライフをデザインしているわけではない。好きな人にはたまらないかもしれないが、忙しい人にとっては、やるべきことが多いのだ。このゲームの原点は、『カルチョビット』と同じく世界一のサッカークラブをつくることである。これが目的。でも、そのゲームデザインに浸っていくうちに、エディット選手の眉毛をどれにするかに迷わなくはいけなかったり、選手の疲労をやわらげるためにサウナという施設があるのだが、そのサウナのレベルをLv1からLv2に格上げするかについて迷わなくてはいけなかったりする。サッカーをやっていたのに、「なぜ、今、自分は眉毛やサウナについて迷っているのか?」という、深淵な問題にぶつかってしまう。

もひとつ、サカつくを進めていくうちに、よーく壁にぶち当たってしまうのが、チーム内の人間関係のトラブル。チームに不満を持つ選手……というのが必ず出てくる。その不満の原因が年俸である場合や、試合に起用してもらえない……というのは、比較的、解決しやすい。年俸はあげればいいし、起用しなかった選手は起用すればいいのだから。一番困ってしまうのは、ある選手が他の選手の言動に不満を持ってしまうケースだ。チーム内の不協和音はよくないので、オーナーとして、よーく話を聞こうと思って、不満マークがついた選手に会ってみると、「あいつとは同じチームにいたくない」的なことを聞かせてくれるのだけど、肝心なその相手の名前を言ってくれない。なので、その不満の対象となる人物を、チーム連携を示す線を見るコマンドがあって、その線がなかなかできてこないことを頼りに探り当てるのだけど、この組み合わせを探し出すのが、なんともやっかいだ。パリティビットではなくスマイルビットの皆さん、誤解をしてほしくないのだけど、あたしは大のサカつくファン。全作、持ってます。なので、サカつくの良いところを強調できなくて、ホント、申し訳ないんだけど、何が言いたいかというと、薗部さんとそのブレーンたちは、サッカー・シミュレーションゲームの先賢、サカつくに学んでないわけはなくて、『カルチョビット』独特のシステムである、特訓のメニューを組み合わせてつくるスペシャルメニューは、おそらくチーム内の不満の組み合わせ探し、というプレイヤーの行為を、ネガティブ潰しではなく、ポジティブ効果にするためには、何があるのか、という発想からきているのではないかという、感想を述べてみたい。

‥‥そんなワケで、『カルチョビット』を正しく紹介しようとか、わかりやすく批評しようとか、そういうカッコイイ目的はいっさいなく、「きっこのブログ」よろしく、自分のために書いているのだが、結果的に激賞している。そこでフト、ここで述べているような意見を当の薗部さんに言ったら、彼はお酒を飲まないときは無口でシャイだから、「それはほめすぎだよ」と言ってうつむくかもしれない、と思った。そして、自分はこんなに凄いゲームをつくっておきながら「『ベストプレープロ野球』と『ダービースタリオン』の中間をやっただけ」などと言い訳(?)をするのではないだろうか。身も蓋もない話をすると、『カルチョビット』は『ベストプレープロ野球』よりも、「する」ことが多く、『ダービースタリオン』よりも「する」ことが少ない。そう言えなくもない。「だから、その中間をやってみただけ」という心にもない答えは、彼をよく知らない人ならば簡単にだませそうだ。でも、まさか、そんな単純な発想ではないでしょう。『カルチョビット』について、薗部さんにインタビューをしたい人がいたら、酒席を用意することをすすめる。

こうやって文章を書いているうちにタイガー阪神とは別のチーム、リッチモンドFCの選手たちも順調に成長しているので機嫌がいい。機嫌がいいので、『カルチョビット』の攻略法を書いてしまうと、特訓のメニューを組み合わせてつくる、スペシャルメニューをいち早く、たくさん発見することだ。選手の成長ぶりが、普通の練習とは格段に違ってくる。で、そのうち、いや、今すでにゲーム関連のWEBサイトに組み合わせが載ってしまっているかもしれないが、それを頼りにしないのなら、2チームを同時に育成することをすすめる。不思議なことに、チームが異なると発見できるスペシャルメニューは違っていて、結果的に2チームのほうが早く組み合わせを発見できる気がするので。あくまでも、そういう気がするだけのことだが。そして、トップロード成田というゲームに出てくるチームは、ナリタトップロードという(父サッカーボーイ 母フローラルマジック)競走馬をもじったのだろう。これは攻略法でもなんでもない。ただの雑感。

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『カルチョビット』のパッケージの裏面には、こう書いてあり、テレビCMでも雑誌の記事でも、たいていこんな言葉によって説明されている。ゲームは非凡なのに、それを言葉にすると平凡きわまりない。こんな平凡な言葉を並べて、どうしてこのゲームの魅力と偉大さが伝わろう。ならば、どう書くと伝わるかを考えてみたが、その答えはなかなか見つからない。ようは、ゲームデザインのメタレベル、プレイヤーの生活をデザインしたゲーム……ということを言いたいのだが、こういう小難しい話は、なかなかうまく伝えられない。ここ数日間の『カルチョビット』体験は、ゲームを語る言葉というもの無力さを痛感した数日間でもあった。たとえ他の人はどうであったとしても、自分はその言葉の無力さに負けまいと思った。そのためには長く書くしかない、と頭脳が反応して、こんな長文をしたためる気持ちになったのかと思う、今日この頃なのだ。

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(注・社名・肩書き等は2006年5月当時のものです)

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