Hisakazu Hirabayashi * Official Blog「思想」というものを意識したのは小学6年生の時だった

「思想」というものを意識したのは小学6年生の時だった

子供時代のことを書く。

私は小学校5年の時の先生が、大好きだった。
もう、10年以上まえから、ネパールに移住され、現地で教育者の指導者をなさっている。
年賀状のやりとりを、今でもさせていただいている、唯一の小学校時代の先生だ。
その先生を仮にS先生と呼ばせていただこうか。

大好きな先生とユニークな教育方法。
楽しい小学5年の生活だったが、6年生になるとき、クラス替えがあった。

新しく担任になった先生の名は、仮にA先生としておこう。
A先生は明らかにS先生と仲が悪いのが、子供ながらにわかった。
なぜならば、廊下ですれ違っても、挨拶しないのを、私は見逃さなかったからだ(笑)

A先生は、戦前の先生のようだった。
私が小学6年生。
35年前に50歳を過ぎた先生がA先生。
「教頭先生の次に偉い先生」という学校内の序列を噂で聞かされた。

A先生は、授業中に脈絡なく戦前教育の話をする。
たとえば、教育勅語の話をする。
各教室にはご真影が掲げられており、教師が「天皇陛下」というときは「おそれ多くも畏くも」と前置きをし、教師も生徒も直立不動の姿勢をとったものだ……などという話をした。

話を戻すとS先生は、絶対にそんな話はしなかった。差別をしてはいけないという教育が徹底していた。でも、社会主義的な……今にして思えば生徒たちに、コミューン運動の話をしたことが何度かあった。

簡単に言ってしまえば、S先生は日教組の若き論客であり、サヨク思想の持ち主だった。
対して、間もなく教頭になろうかというA先生は、反日教組のウヨク思想の持ち主だったということだ。

授業のやり方、クラス内の友人たちとのかかわり方、先生個人の関心事。
S先生とA先生を、ここまで正反対にさせているものは何だろう?
ふたりが反目するわけは?

絶対に空恐ろしい何かがある。
子供が踏み込んではいけない何かがある。
でも、私はその禁忌の領域に、踏み込みたかった。

私は小学6年生にして、それは「思想」だ。
ということを、頭脳ではなく皮膚感覚で知った。

サヨクは左翼に。
ウヨクは右翼に。
感覚がだんだんと概念へと変化していった。

当たり前だが、小学生の私は左翼でも右翼でもなかった。
ただ、人としてはS先生が大好きで、その先生が嫌いなA先生は好きになれなかった。

当時の悪ガキは、黒板消しを教室の引き戸にはさんで、先生に悪戯するのが定番だったが、それだけでは芸がない、と思った。

私は考えた。
A先生が最もいやがることは、スーツにチョークの汚れがつくことでも、椅子に画鋲を置かれることでもないはずだ、と。

当時、成田空港建設工事をめぐって、三里塚闘争が激しかった。
そこで、考えたのが「三里塚闘争ゴッコ」だった。
クラスの皆を先導し、デモ行進をし「空港・反対!」と休み時間中に、学生運動まがいのことをやってみたのだ。

その光景を見て、A先生は烈火の如く怒り、その日を境に学校に来なくなってしまった。
先生の登校拒否だ。
高血圧で倒れた、という名目だったか。
原因は、もちろん私にあろう。

それからしばらく、他の先生が臨時の担任になった。
A先生の休職中、母は一升瓶を持って謝罪に行ったのだという。
私の小学校での悪行は、相当の評判になっていて、私は一言も言わなかったが、母の耳に入っていた。もちろん、父も知っていた。

しかし、母は私のことを叱らなかった。
叱るどころか、じつはあの時、A先生のところに謝りに行った、ということを知らされたのは、私が高校性になってからだった。

早熟で多感だった私にとって、S先生とA先生は、日本の小学校のカリキュラムにはない「思想」というものを教えてくれた存在だった。

この体験が、現在の私に息づいている。
設計思想という言葉があるくらいで、新製品は、スペックではなく思想を読む癖がついた。
企業にも思想があり、経営者にも思想がある。
私は、その思想に敏感すぎるほど敏感になって生きている。
私が現代美術に興味を持つのも、思想そのものが芸術だからだろう。

とにかく私は、思想を重んじる。
この態度のうちの約3割が、頑固さになり、悪い目が出るときもあるが、7割は大局を見て、細部を言い当てる技能や、断片から思想を編み上げる能力に、いかされているのではないかと思う。

そんなことを考えながら、2009年のこどもの日を迎えている。

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