私はぶれていない、の愚かしさ
- Day:2009.07.26 00:00
- Cat:政治
ぶれるというのは、もとからあった日本語ではなく、「振れる」が転じて「ぶれる」になったようだ。
ぶれるか、ぶれないか。
ぶれたか、ぶれてなかったか。
政治論議で「ぶれ」が、これほどクローズアップされるようになったのは、麻生総理大臣のいくつかの発言が発端で、それを追求する野党議員や記者たちが、またそれを増幅させたからだろう。
国会質疑で。
野党議員「総理、その考えはぶれていませんか?」
麻生総理「いいえ、私はぶれたとは思っておりません」
記者会見で。
新聞記者「総理、以前のご発言とぶれていませんか?」
麻生総理「私はぶれずに同じことを言ってきました」
総理大臣を「ぶれ」で攻撃してきた手前、野党の党首や議員も「私(たち)はぶれていない」を強調しながら、会見、メディアでの発言、演説などをする。
……というようなことを繰り返すうちに
ぶれる=悪。
ぶれない=善。
のような、非常に一元的な考えに、政治家もマスコミも、いつの間にか染まってしまったように思う。
愚かだ。
私が数回続けてエントリーしてきたプロデューサー論からしてみると、まるでお笑いである。
名プロデューサーは、前半戦と後半戦で激しく行動や発言がぶれる。
ぶれるどころか、正反対を向いてしまう。
そんな話を書いた。
しかし、どうだろう?
根底にある理想像――良いモノづくりをして、商業的に成功させる――において、名プロデューサーは、まったくぶれていないことに注目していただきたい。
ぶれない信念のようなものを持っていたならば、発言や行動が、ときにぶれるのは、よくあることである。そういうときには、「前に述べた言葉とは違うが、本来の目的に変わりはない」と、堂々と述べればいいだけのことである。
国家のプロデューサーたちは、それくらいの気概を持ってほしい。
一番恐いのは、表面の言葉がぶれるのを恐れ、信念が曲がり放題に曲がった政治が、まかり通ってしまうことだ。
日曜日。
衆議院選挙をテーマにした政治の話題が、ニュース番組を覆いつくすだろう。
今日だけではない、これから1か月以上も。
私は「私はぶれていない」と言った政治家は、物事の本質がわかっていないとみなし、心の中で減点することになるのだろう。