偶然書けた文章、そして覚醒水準最適化理論へ
- Day:2009.07.28 00:02
- Cat:ゲーム
まず、「振り向けば景色は変わっていた」と書かれた、あの文章は、はじめの原稿では入れる予定ではなかった。
だが、閃くものがあり、あとから挿入した。
予定外の文章が、読者の方の印象に残っているとは、なんとも奇縁で結ばれている気がする。
しかも、あの文章、ちょっとした事件が起きている真っ最中に書いている。
『ゲームの時事問題』を執筆中に韓国に出張に行く機会があって、ソウルの三成洞(サムソンドン)地区に滞在していた。同地区の、頭文字がIの某ホテルに宿泊していた。ところが、事件が起きた。
全館停電になってしまった。
ホテル中が大騒ぎになった。
部屋の照明はつかない、バスルームの照明もつかないのでシャワーも使えない。
廊下は真っ暗だ。
エレベーターも止まってしまった。
停電のおかげで、何もすることがない。
何もできない私は、ボーッと暗闇の中で天井を見つめていたら、スラスラと舞い降りてきたのが、あの文章だったのだ。
幸いPCを部屋に持ち込んでいた。
しかし、充電が十分ではなく、バッテリーが残っているうちに猛スピードで書いた記憶がある。
これが執筆時の思い出である。
本が刊行されたのち、しばらくしてから、当ブログで何回も紹介している以下の本に出会う。
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私が比喩として使った、「麻薬のように」「精神を激しく揺さぶった」「もっと強い刺激をせがみ」「かつてのような豊潤な牧草はそこにはない」「それはたぶん極限まで走りすぎたせいだろう」……を体系だって説明してくれていたのが、M.J.エリス(Michael J. Ellis)の遊び=覚醒水準最適化理論だった。
以前にも書いたがこういう趣旨である。
M.J.エリス(Michael J. Ellis)氏は「覚醒―追求としての遊び」を主張している。『遊びとは、覚醒 水準を最適状態に向けて高めようとする欲求によって動機づけられている行動である』。
人間は、かろうじて覚醒している状態から極度の興奮までさまざまな段階がある。この、それぞれの段階を覚醒水準(arousal level)と呼ぶ。
この覚醒水準において、個人は個人にとって居心地の良い、収まりの良い最適な覚醒水準を持っていると前提する。この最適な覚醒水準を もたらしうる、もたらしそうな刺激は、個人にとって「面白さ」を感じることができる、という。
したがってその場合は、刺激を求める場合と、刺激を避ける場 合がある。個人が最適覚醒以下の水準にあるときは、刺激を求める、個人が最適覚醒以上の水準にあるときは、刺激を避ける、ことになる。
この最適な覚醒水準 を求めようとする行為自体が、まさに遊びであるという。簡単にいうと、都会にいる者は日常の刺激が強いので週末は地方の温泉地に行き、その地方に住んでいる者は、温泉地は退屈なので、週末は都会に遊びに来る――という人間の営みを学術的に述べるとこうなる。
同書は、のちに起こる『脳トレブーム』や『Wii Fit』のような、刺激追求型ではないゲームソフトの隆盛を予見している。しかしまた、あまりに刺激が少なくなると、今度はまた強い刺激を求めるのが人間の本性であることも示している。以後、本書は私の閃きの理論的裏づけとなってくれた。
この本に出会えたのは、私が「振り向けば景色は変わっていた」を書いたことと、つながりがあるのだろう。