Hisakazu Hirabayashi * Official Blog存在が耐えられる重さ、月刊『文藝春秋』

存在が耐えられる重さ、月刊『文藝春秋』

私は月刊『文藝春秋』を、ほぼ毎月購読している。

特に、新幹線、飛行機、山手線……さあ、移動するぞ、というタイミングになると『文藝春秋』を持ちたくなる。読みたくなるではなく、持ちたくなるのだ。持っていると、活字中毒者である私は安心する。特集記事の内容、編集方針などに関係なく、あんなに厚いのに750円というは、「お得」な感じがする。そして移動中に読み終えてしまって、手持ちぶさたになるという心配もない。そんな……雑誌というよりは護符のような存在だ。

考えてみれば不思議なものだ。あんなに重いものを持ち歩きたいなんて、合理的ではない。
でも、10分程度で読むところがなくなってしまう、週刊誌や新聞の物としての軽さは、とても心細く感じるのだ。

今週は残るアナログと滅びるアナログ。
いっぽうで残るデジタルと滅びるデジタルもあるであろうことについて、考える機会が多かった。

アナログの時代がデジタルの時代に変わるのではない。
そんな単純な話でなく、不滅のアナログはあるだろうし、パッと咲いては消え落ちるデジタルもあるだろう。ただ、確率論でいえば、アナログの生存率のほうが低くなる傾向がある、ということなのだろうか。現在、思案中だ。

ところで……
月刊『文藝春秋』といえば、赤坂太郎のコラムが好きだ。
昔は、よくこのページをまず探して読んだものだ。
でも今は、WEBで簡単に読めてしまう。
読者としてはありがたいが、発売中の雑誌のコラムがそのまま読めるのは、過剰サービスではないだろうか。いや、それでもよいのだろうか。これまた現在、思案中だ。

同コラムの文中。

麻生は河村と細田にこう語った。総裁選は特別国会後に行い、首班指名では自民党議員に「麻生」と書かせる算段だった。そして、二人を唖然とさせたのが、麻生の次の一言だった。 「総裁選に手を挙げる者がいなければ、俺が立候補してもいいぞ」。漢字だけではない。最後の最後まで、麻生は空気が読めなかった。

……の箇所は、プッと吹き出しそうになった。

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