iPadは、スーパーファミコンのような、プレイステーション2のような
- Day:2010.05.13 12:14
- Cat:デジタル
到着するのを楽しみにしています。
ユーザーの立場だけではなく、日本のコンテンツ産業が元気になる可能性を持ったマシンとしても期待しています。
その成否は、iPadの性能ではなく、アップル社のトータルなマネジメントに依存する、と考えています。
でも、ですね。
縁起の悪い話をすると、このような売れることが確実視された製品が出る瞬間は、企業の驕りのようなものが垣間見えてしまう、あるいはより強固に根づいてしまう、危険な瞬間だ……という歴史を私は見てきました。
スーパーファミコンは、本来、1989年に発売される予定でした。
ところが1990年に発売延期されました。しかも発売予定日は、2回延期されています。
その発売延期会見、というのがあったのですが、場所は京都の任天堂本社です。
急に発表され、新幹線で駆けつけ、延期の理由を聞き、夏場でしたので、なぜか吉兆の素麺が土産として渡された記憶が残っています。
大きくくくってしまうと、90年代の任天堂は、マスコミの批判に常にさらされ、時にバッシングをされる企業でした。それは、個別の製品や企業活動というよりは、当時、頻繁に比喩として使われた「殿様商売」的な雰囲気が醸成されてものでもあり、何かがあると、ここぞとばかりに攻撃されたのは、任天堂の目に見えない風土・体質が遠因かと思われます。
ところで、そのスーパーファミコン。
何が良くないって、ソフトの値段が高かった。9800円が最多価格。14800円のソフトもザラにあった。容量が大きくなり、ロムカートリッジの原価が上がったら、そのままスライドするかっこうで最終売価も上がっていったのです。
この弱点をきれいに衝いたのが、プレイステーションでした。
ソフトの価格は5800円。
CD-ROMだから原価が安い。流通マージンもカット。ユーザーは安く製品が手に入り、パブリッシャー(メーカー)の利益はスーパーファミコンと変わらない、という画期的なビジネスモデルをぶつけたのです。
結果は言うまでもなく、当時のゲーム業界人は、誰も思いつきもしなかった、任天堂の地位は転落。プレイステーションが普及台数ナンバー1の家庭用ゲーム機となりました。
さて、プレイステーションの後継機、プレイステーション2はスーパーファミコンと同じで、もう名前が発表された時点で成功が約束されたマシンでした。
しかし、プレイステーション2が本当にやりたかったこと。ブロードバンド(発表当初はCATVだった)を使っての、当時、e-distribution(イー・ディストリビューション)と言われたソフトウェアの電子配信は立ち上がらず。そして、前述したプレイステーションの発明的なビジネスモデルは、公取委から排除勧告を受けて機能しない状態になっていました。
そんな舞台裏はわからないユーザーは、とにかくプレイステーション2が欲しくて欲しくてたまらない。発売して最初の週末、事実上、3日間で100万台売れたはずです。ハードはとにかくよく売れる。しかし、ソフトの販売数量は漸減し、流通も疲弊していったのがプレイステーション2の時代の特徴です。本当ならば、ドラスティックに……ゲームの世界を、コンピュータ・エンタテインメントの世界に広げるはずだったのに、結局、豪華な家庭用ゲーム機の域から、はみ出さなかったという。
この状況で、再生したのは任天堂で、昔は発売延期会見を京都に呼びつけていた会社だったのですが、ニンテンドーDSを発売する際には、中小のデベロッパーに挨拶をし、開発サポートをする体制をとりました。
私の知り合いは「ウチみたいな小さい会社に任天堂が来てくれた」というだけで大喜びするメールを送っていたほどでした。
あ、そうそう、何が言いたいのかというと、スーパーファミコンはすごく売れたけど、敵に衝け入る隙を与えた製品だった。プレイステーション2も同じく、すごく売れたけど、敵に衝け入る隙を与えた製品だった。
話を相当、端折っていますけど、あらかじめヒットが確実視されていた製品の表も裏も見てきた私にとって、マンガの暴力・性的表現に厳しいとか、ネット通販を企業によって禁止するとか、販売する店頭も絞り込むなどというニュースが連日飛び込んでくるiPadは、スーパーファミコン、プレイステーション2と重なって見えてしかたないのです。
教訓:強気相場は、悲観の中に生まれ、懐疑の中で育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていく。
(米・ウォール街のことわざ)