ディスクシステム興亡史(3)-完結編-
- Day:2010.09.17 21:59
- Cat:ゲーム
東京ゲームショウ開催期間ですが、考えるところございまして、ディスクシステムのことを振り返っております。
今回が完結編です。
■1986年6月……[連合軍参戦]
1986年6月、聖戦の戦局は任天堂にとって有利な方向に動いていた。家電メーカーのシャープがファミコン本体とディスクシステム一体型マシン「ツインファミコン」を発売したのだった。定価は32000円。任天堂はこの聖戦をはじめるにあたって、ひそかにシャープと同盟を結んでいたのだった。
■1986年3月~1986年8月……[ソフト不足]
『ゼルダの伝説』の評価は著しく高い。「ツインファミコン」も発売された。だが、ディスクシステムはソフトの量的な面では苦戦をしいられていた。
86年3月には、ディスクソフトは発売されなかった。任天堂が当初予定していた「月に一本」の方針は早くも変更しなくてはいけなかった。
4月に『謎の村雨城』、6月に『スーパーマリオブラザーズ2』、8月に『メトロイド』を任天堂は2ヶ月に一本のペースで発売するが、サードパーティが製作したソフトはラインナップに並ばない。
当時のサードパーティの中では、最もソフト開発力があるとされていたナムコを筆頭に、有力メーカーの何社かが、ディスクシステムには関心を示さなかった。
理由は簡単だ。儲からないからである。ディスクシステムの販売価格は安い。書き換え料金はさらに安い。従来通りのロムカセットをつくっているほうが、サードパーティは売上も利益も上がるしくみになっていた。
ただし、完全にディスクシステムを黙殺したサードパーティは少なく、ロムカセットもディスクカードも両方出す会社が多かった。当時、こういう会社は隠語で「両天秤」と呼ばれていた。
蛇足ながらつけ加えれば、今までは一律だと思われていたサードパーティ各社に、「任天堂に近い」「任天堂とは遠い」というレッテルが貼られるようになったのは、この頃からだったのかもしれない。ディスクシステムへの応対の熱心さが、ソフトメーカーの本音を知るサインになっていたからだ。
■1986年8月……[親衛隊の組織化]
たとえばこの団体の結成などは、いかにも「任天堂に近い」を示す動きといえるだろう。それまでのファミコンビジネスには無かったタイプの、サードパーティ囲い込み策があらわれた。ディスクシステムを支援する親衛隊が、任天堂の外部で組織化された。
◇DOGの結成
『ファイナルファンタジー』が出る、まだ一年以上前のことである。86年の夏の時点で、スクウェアは、中規模の新興ソフト会社のひとつだった。だが、当時のスクウェアは、若いソフト集団らしく、型破りな発想を持っていた。みずからディスクソフトをつくるだけではなく、リーダーシップを発揮して、仲間の企業をディスクシステムのサードパーティに招き入れようというのだ。
そこで生まれたのが、ディスクシステムの親衛隊のような、DOG(ディスク・オリジナル・グループ=Disk Original Groupeの略)という団体だった。
彼らの論法は理にかなっていた。▼ディスクシステムという機器は、今までの反射神経型のゲームよりも、アドベンチャーゲームやロールプレイングゲームのような、思考型ゲームに適している。▼当時、思考型ゲームのノウハウを持っているのは、アーケードゲームメーカーよりも、パソコンゲームソフトのメーカーである。▼だが、(ファミコンに参入していない)パソコンゲームメーカーは、概して小規模な企業が多く、かつ地方に散在している。▼各社が独自に任天堂のサードパーティになったのでは、資金・情報入手の両面でロスが大きい。▼そこでスクウェアが窓口に立って、DOGを結成すれば、開発機材や、開発ノウハウを加盟複数社で共有ができる。……こんな論法から生まれた組織である。
DOGには、スクウェアのほか、マイクロキャビン、システムサコム、クリスタルソフト、キャリー・ラボ、シンキング・ラビット、ハミングバード。実績のあるパソコンゲームメーカー7社が加盟した。
86年12月、DOGから『水晶の龍(ドラゴン)』と『ディープダンジョン』が、翌87年には7タイトルが発売されている。
■1986年9月~11月……[援軍の到着]
86年の秋、任天堂が待ちに待っていた援軍がやってきた。それまでは寂しい限りだったサードパーティのディスクソフトだったが、ようやく強者のソフトが、顔をそろえはじめるのである。『悪魔城ドラキュラ』(コナミ/86年9月発売)、『ザナック』(ポニー・キャニオン/86年11月発売)などである。ディスクシステムのソフトの数は、この頃に増えて活気づく。
■1986年5月~12月……[戦況の変化/その1]
だが、ファミコン帝国の内部では、静かな異変が起きていた。ロムカセットのメモリー容量が、増えていった。カセットの容量が増えることは、ディスクシステムは「メモリー容量が大きい」という魅力を、失っていくことを意味する。
◇メガロム時代の到来
ロムカセット内のプログラム・データは、マスク・ロムといわれる読み込み専用の半導体に記憶されている。その容量が、この八六年から1メガビットの時代に突入したのだった。1メガビットのメモリー容量を持つロムカセットのことは、「メガロム」と呼ばれた。
ディスクシステム発売年の86年は、じつは、「メガロム元年」でもあったのだ。カプコンが86年に発売した『魔界村』が、ファミコンとしては、はじめてメガロム積んだソフトだった。
◇ロムカセットに超ヒット作
また、容量とは関係なく、86年末と87年の初頭、ディスクシステムにとっては悲運な出来事が重なった。ロムカセットのヒットソフトが連発した。86年の12月に発売されたナムコの『ファミリースタジアム』、翌87年1月に発売されたエニックスが発売した『ドラゴンクエストⅡ』。 発売するやいなや、300万本近く売れた両ソフトは、間接的に「ファミコン本体だけで、ゲームは十分おもしろい」と市場に訴えかけているようだった。
1986年という年は、ディスクシステムの行く末が業界最大の関心事だった。さて、その販売結果だが、ディスクシステムの発売初年度で合計224万台が売れている。立派な販売台数である。
とはいえ、当時のディスクシステムは、ゼロから販売台数を数えられて、ほめてもらうことは少なかった。いつも比較対象にされたのは、ファミコン本体の数字である。86年末の段階でファミコン本体は968万台が売れていたから、968万から224万を引いて……「まだ748万人も買っていない」……ファミコン帝国特有の統計学では、こうやってハードの勘定をする。
聖戦の形勢判断は、若干劣勢と判断された。
■1986年1月……[英雄の反撃]
ファミコン帝国の英雄、ディスクシステムに命運を握る男・宮本茂は、この必死に抗戦する。
87年1月14日、待望の『リンクの冒険』が発売された。リンクは、『ゼルダの伝説』の主人公の名前である。ディスクシステムのユーザーは、このゲームが出るのを待っていた。
『リンクの冒険』は『ゼルダの伝説』の続編であったが、アクションゲームの色合いが濃かった。具体的に述べる。主人公が敵と遭遇すると、拡大画面に切り替わってリアルタイムの戦闘操作を行う設計だった。
◇英雄が考えたディスクシステム三部作
聖戦の指揮官、宮本茂は戦略家だった。ディスクシステムが発売されるはるか以前、彼自身がはじめてディスクシステムの存在を知った時(八五年の夏頃)、宮本茂はなんと3つのゲームを同時に思いついたのだという。そして彼は、その3作をディスクシステムの発売後の時間の経過(=普及状況)に沿って割り振り、ゲームを企画している。
(1)ディスクシステムと同時発売のゲームは?
ゲームがおもしろいだけではなく、ディスクシステムのすぐれた機能を理解してもらうゲーム。言ってみればハードのデモンストレーション的なゲームであるべきだと彼は考えた。そこでこのゲームを、ロールプレイングゲームのように長い物語があって、データのセーブを繰り返して遊べるものにした。これが『ゼルダの伝説』である。
(2)ディスクシステム発売1年後に出すゲームは?
1年間もたっていれば、ディスクシステムは相当数普及しているはずである。宮本茂はそう予測した。そして、多くの物語性のある思考型ゲーム(ロールプレイングゲームとアドベンチャーゲーム)が、ディスクソフトは埋め尽くされるだろうと考えていた。そんな時こそ、「他のゲーム企画者とは違うことをしたい」。当然のようにこう考える彼は、いわゆる逆張りをした。
「物語のゲームにユーザーはそろそろ食傷気味になっている頃、ユーザーはかえって、ファミコンらしいシンプルなアクションを楽しみたがっているのではないか?」。こんな仮説を抱いてつくられたのが『リンクの冒険』である。参考までに、三本目についても触れておくと、
(3)ディスクシステム発売一年半後に発売するゲームは?
そして一年半もたてば、ディスクソフトの書き換えはかなりユーザーの生活にとけ込んでいるはず――。宮本茂はさらに先をこう読んだ。そんな時には、「500円で文庫本を買う感覚で遊べるゲーム」が必要だと考える。そこで彼は、一見贅沢に思えるディスク2枚組(とはいっても書き換えならば1000円で入手できる)の長編アドベンチャーゲームを用意した。これが前編・後編に分かれてリリースされたおとぎ話風アドベンチャーゲームの傑作ソフト・『新・鬼が島』(87年9月発売)である。
要約すれば宮本茂は、まずはロールプレイングゲームで下地づくり。つづいてアクション系のゲームで原点回帰。とどめは、本を買うような感覚で書き換えてもらうアドベンチャーゲーム。以上の三作品で、聖戦の決着をつけようとしたわけだ。なんと論理的な!
ゲームソフトの商品開発史上まれに見る、戦略的な思想がこの三作品の奥に隠されているのである。
『ゼルダの伝説』(86年2月発売)
『リンクの冒険』(87年1月発売)
『新・鬼が島』(87年9月発売)
ファミコンソフトの発売日一覧表にしてみれば、何の意味も持たないかに見えるこの3行だが、偉大な英雄の、壮絶な行軍記録に思えてならない。
■1987年2月……[別働隊の作戦]
『ドラゴンクエストⅡ』のヒットをきっかけに、市場ではロールプレイングゲームがブームになっている。ディスクカードか、ロムカセットか、ではなくゲームユーザーはロールプレイングゲームを渇望していた。
しかしファミコン帝国の総帥、任天堂はディスクシステムの真価を発揮する、次なる作戦を用意していたのだ。86年2月、ディスクシステムを使った全国規模の在宅ゲーム大会、ファミコンディスクトーナメントが始まった。
◇ファミコンディスクトーナメントとは?
ディスクシステム用ソフトを、書き換えるためにつくられたディスクライターは、約3000台が玩具店・百貨店玩具売り場などに設置されていた。
ファミコンディスクトーナメントは、このディスクライターを逆方向に使う、つまりユーザー側から、任天堂へデータ転送するしくみを利用したものだった。ユーザーから任天堂にデータを送るこの方式は、「ディスクファクス」と名づけられていた。
ファミコンディスクトーナメントが最初に開催されたゲームは、『ゴルフジャパンコース』(2月21日発売)だった。このディスクには、特殊な加工が施されていて、ディスクライターを通すとプレイヤーの成績は、ホストコンピュータに転送できるしくみになっていた。このトーナメント用の特殊なディスクを、任天堂は通常のディスクカードとは色を変えて販売。他のソフトは黄色だったが、トーナメント用は青色。そのためこのディスクは俗に「青ディスク」と呼ばれた。
その青ディスクの『ゴルフジャパンコース』を買ったユーザーは、家に持ち帰ってゲームをする。そして、自分が出したベストスコア、4ラウンドをディスクにデータ保存し、再びディスクライターがある店頭に行く。店員に登録を申し出て、電話回線を通じて任天堂にデータを送れば、エントリーを完了。上位入賞者はオリジナルのコースを収録した非売品ソフトが任天堂から贈られることになっていた。
任天堂は合計4回のトーナメントを開催している。第1回『ゴルフジャパンコース』(87年2月)、第2回『ゴルフUSコース』(87年6月)/第3回『ファミコングランプリF1レース』(87年10月)、第4回『3Dホットラリー~ファミコングランプリ2』(88年4月)が対象ソフトであった。
■1985年5月……[ランキングの恐ろしさ]
だが、ファミコンディスクトーナメントも、ディスクシステム普及の起爆剤にはなれなかったようだ。かつてない試みとして話を聞くと、かなりエキサイティングであるはずのこのイベントなのだが、想像以上の盛り上がりは、見せてくれなかった。
◇何のコンテストだったのか?
トーナメントに参加した人たちは、夢中になってゲームをやり込んだ。それこそ「ここが自分の限界」というところまでプレイした。自分の技術、さらに体調までもが最高潮に達した時、『ゴルフジャパンコース』をプレイする。そうやって記録したベストスコアを持ち寄って、各人が自信満々でエントリーをした。
しかし、ファミコンディスクトーナメントが万人にエキサイティングだったのは、残念ながらここまでだった。
トーナメントが終了。いざ結果が発表されてみれば、大半の参加者が失望しなくてはいけなかった。なぜなら、全国のゲームプレイヤーが集まってみれば、「上には上がいる」ことを知らされるからである。
このイベントは日本中のゲーム天狗たちの鼻を、いっぺんへし折るために開催されたような、そんな面もあった。4ラウンドの平均スコアが66、1ラウンド平均6つのバーディをとったプレイヤーが、平気で10000位以下になってしまう。人生の厳しさを、噛みしめなくてはいけないのが、ファミコンディスクトーナメントだったのである。
コンピュータゲームに限らず、勝負事をする人間は、皆が「自分が一番!」だと思っている。しかし、そんな自慢も、全国一斉デジタル集計にはかなわない。楽しいゲームをやっているにもかかわらず、結局は多くの参加者が、軽い自己嫌悪を味わなくてはいけなかった。
第1回大会の優勝者のスコアは、一ヶ月のうち数日しか仕事をしないで、あとの毎日はゲームばかりしていた某有名交響楽団の楽団員だった。そして第2回の『ゴルフUSコース』を使ったトーナメントの優勝者は、理工学部の大学生だった。この大学生は自宅のパソコンで、最適ショット計算プログラムを作成してからゲームをはじめた。残りヤード数・風向きを入力する。すると、選択クラブと打つべき方向とショット強さが表示されるソフトウェアを自作したのだ。彼はパソコンの指示通りにゲームをして、トーナメントを制覇したのである。「右にパソコン、左にファミコン」を置いて、つかんだ優勝だった。
私が負けたから八つ当たりをするわけではないが、腕自慢ではなく、時間がある者が勝つのが、ファミコンディスクトーナメントだった。
■1987年4月~1988年2月……[戦況の変化/その2]
長かった聖戦が終わろうとしている。
後世から興亡の歴史を振り返ってみれば、この出来事が致命的だった。
大容量化が進んだロムカセットに、ついにセーブまでできる機能がついてしまう。こうなってはディスクシステムの最後の砦は、陥落したのも同然だった。
ロムカセットでも、ゲームデータを保存できるようにしたその技術を、バッテリーバックアップシステムといった。
◇たった一個の装置が……
ファミコンカセットには、プログラム・データを記憶しているマスク・ロムが入っている。そのロムのそばに、バッテリーによって電流が供給されたS-RAM(Static-Randam Access Memory)を置くと、ロムカセットでもデータの保存・読み込みができる。
このバッテリーバックアップシステムを搭載したのは、当初のうちは将棋ソフト、囲碁ソフトだった。だが、当時の人気ジャンルだったロールプレイングゲームと結びつくと、その威力はすさまじかった。
87年の秋、『ウルティマ』(ポニー・キャニオン/87年10月)、87年末『ファイナルファンタジー』(スクウェア/87年12月)、『ウィーザドリィ』(アスキー/87年12月)。とどめは、翌88年のはじめに発売されたゲームだった。当時、ファミコン史上最も売れたロールプレイングゲームとなった『ドラゴンクエストⅢ』(エニックス/88年2月)にも、バッテリーバックアップシステムが搭載されていた。
これらゲームを遊ぶうちに、ゲームユーザーの意識からディスクシステムの便利さは薄れていった。
▽ ▽ ▽
解釈の仕方はいろいろあろうが、本稿がつづるディスクシステムの興亡史は、バッテリーバックアップシステムの登場によって、あらかたの決着がついたことにして結びたい。
1986年からはじまった聖戦は、88年のはじめにはほぼ終わっている、と考えてよさそうなのだ。
実際、87年の秋に任天堂は、ディスクシステムの事実上の敗北宣言をしている。かつて、「ディスクシステム用のソフトしか出さない」と宣言していたが、任天堂自身がロムカセットのタイトル『マイクタイソンパンチアウト』を87年11月21日に発売しているのだ。
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歴史に「もし」が許されるとしたら。
もし、当初の計画の通り、NTTの電話回線でゲームデータをダウンロードして、それが500円で販売されたとしたら、今ごろゲーム業界はどうなっていたのだろうか?
パッケージソフトとは何なのだろう?
ユーザーがオンライン上で決済するということは何なのだろう?
新技術とは?
時流に乗るとは?
今だからこそ、改めて振り返っておきたい「ディスクシステム興亡史」である。
最後に私見を。
ファミコン周辺危機の販売のことを、聖戦と呼んでいることからもおわかりのように、私はディスクシステムの構想を美しいものだと思っていました。昔も、今も。
(完)
*長文をお読みくださり、どうもありがとうございました。
*なお、本文の敬称は略させていただきました。