操觚者
- Day:2011.04.09 22:33
- Cat:メディア
ここ数日間、Twitterにログインしている時間が極端に短くなった。
理由はジャーナリストと呼ばれる人たちが、権力や大企業、具体的には政府と東京電力に言葉の力で挑もうとしている姿が痛々しい。私は批判をしていない。さりとて心底、敬意を払うこともできない。その労を見ては、ただただ、複雑な感情になるだけだからだ。
ジャーナリストの原動力は正義感だ。
だが、ときに正義感は行動するうちに高揚感に、執筆するうちに陶酔感へとすりかわる。
ひとつの稿を書き終えたあと、冷静な目に戻れるかどうかが問われる。
言葉は酒のように人を酔わせる。文脈もまたしかり。
Twitterの中にいると、書かれた文字よりも、書き手の終わりなき高揚と陶酔を眺めている気分になる。
その気分はけっして心地よいものではない。
ジャーナリストの昔の呼称は「操觚者(そうこしゃ)」だった。
觚とは、中国古代、儀式に用いられた大型の酒器。細い筒形の胴に朝顔状に開いた口縁と足とがつく……と辞書に書かれていた。
形而上学的にいうと、メディアが商業化された時点でジャーナリストはいなくなった、というのが持論だ。
だから、私はどんなに文章を書いても、ジャーナリストを名乗ったことはない。
いや、名乗りたくても名乗れない。
身が汚れた、ただの物書く芸人だと思っている。